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邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚


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1◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/30(月) 23:54:53.95
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1585193046/
◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
2◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/30(月) 23:56:30.59
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
3◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/30(月) 23:57:05.42
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
4◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/30(月) 23:57:47.36
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
5◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/30(月) 23:58:19.04
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
6◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/30(月) 23:59:00.85
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
7◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/30(月) 23:59:31.98
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
8◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:00:05.08
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
9◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:00:41.52
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
10◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:01:14.57
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
11◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:01:47.50
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
12◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:02:22.77
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
13◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:02:54.88
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
14◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:03:27.61
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
15◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:04:01.92
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
16◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:04:32.91
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
17◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:05:07.80
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
18◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:05:39.39
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
19◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:06:11.17
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
20◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:06:42.47
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
21◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:07:15.74
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
22◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:07:46.85
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
23◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:08:23.72
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
24◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:08:56.89
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
25◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:09:29.02
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
26◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:09:57.27
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
27◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:10:31.15
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
28◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:11:04.20
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
29◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:11:38.36
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
30◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:12:09.99
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
31◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:12:42.12
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
32◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:13:23.13
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
33◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:13:55.67
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
34◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:14:28.07
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
35◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:14:59.85
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
36◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:15:45.34
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
37◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:16:46.40
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
38◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:17:18.05
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
39◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:17:50.11
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
40◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:18:22.11
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
41◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:18:54.19
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
42◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:19:27.55
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
43◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:20:01.72
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
44◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:20:32.28
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
45◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:21:23.76
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
46◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:21:55.36
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
47◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:22:27.63
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
48◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:23:01.99
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
49◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:23:33.97
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
50◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:24:16.76
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
51◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:24:48.88
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
52◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:25:32.67
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
53◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:26:23.28
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
54◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:26:55.83
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
55◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:27:33.58
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
56◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:28:04.92
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
57◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:28:36.22
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
58◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:29:28.12
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
59◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:30:03.81
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
60◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:30:35.34
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
61◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:31:12.43
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
62◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:31:43.91
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
63◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:32:19.65
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
64◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:32:50.90
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
65◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:33:22.85
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
66◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:33:59.39
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。aaaaa
67◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:34:31.62
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
68◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:35:16.10
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
69◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:36:08.34
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
70◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:36:40.07
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
71◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:37:20.95
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
72◆n7jxAxKCBhb6
2020/03/31(火) 00:37:52.79
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
73日本@名無史さん
2020/03/31(火) 08:46:14.75
頭の悪いプロ固定が、完全に論破されたテンプレートを、貼り付けてしまったな。
74日本@名無史さん
2020/03/31(火) 11:55:31.03
反論ひとつ出来ない九州説がヤケクソに大言壮語してて藁
75日本@名無史さん
2020/03/31(火) 12:46:11.76
581スレまで畿内説のまともな反論無し
76日本@名無史さん
2020/03/31(火) 12:57:03.24
>>75
という証拠が絶対出せないから九州説は面白い
77日本@名無史さん
2020/03/31(火) 13:00:47.79
というか、何への「反論」だというのか
具体的なことが全く言えないのが九州説の特徴だね

このことが
「九州説は実は畿内説に何も反論していない」
という命題を帰納的に証明してしまっているのだが
78日本@名無史さん
2020/03/31(火) 13:03:21.43
畿内説学者(松木氏)の見解

北部九州では紀元前1〜2世紀、朝鮮半島から鉄の素材が入り、加工して流通するようになった。
弥生時代、倭で最初に本格的な金属器社会に入った地域だ。
初期の国家について「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。
ではなぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか。
北部九州は交易が盛んで、鉄も豊富にあり、経済的にも進んでいた。

ここまでは正しい
しかし、
<根拠なき妄想スタート>
空間的、階級的にも分散して社会形成が進んだ。
イメージしやすいのは、みんなで豊かになる「共和制」だ。

そして適合する遺跡も出土品も無し
79日本@名無史さん
2020/03/31(火) 13:09:38.96
試しに誰か「畿内説への反論」を具体的に表明するならば
九州説の人が「これが俺様の反論だ」とでも言わんばかりに口角泡を飛ばすのは
実は「俺様独自の九州説」を提唱してるだけだと簡単に証明できると思う
そしてそれが「決して証明できない九州説」であることも

つまり彼らが「証明とは何か」「反論とは何か」知らない
ということになるわけだが
80日本@名無史さん
2020/03/31(火) 13:13:31.61
>>78
ほら「そして適合する遺跡も出土品も無し」
が証明できない
最初から悪魔の証明に陥ってしまっている
これが常に九州説の致命傷になる
81日本@名無史さん
2020/03/31(火) 13:19:12.43
「ある」ことに比べて「ない」ことの証明の難しさが理解できれば
なぜ悪魔の証明に頼ることが自滅を意味するのか、よくわかるだろう
82日本@名無史さん
2020/03/31(火) 13:35:56.03
あるなら出せばいいのに
83日本@名無史さん
2020/03/31(火) 13:55:01.70
>>82
古墳
84日本@名無史さん
2020/03/31(火) 13:59:50.21
>>83
適合する古墳なのか?
@有棺無槨
A土を盛った塚
B径100歩
C殉葬約100名
D250年頃建造
85日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:10:06.12
箸墓がジャストだな
86日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:14:53.66
径百余歩は145m前後だぞ

152m以上なら径百十歩のはず

箸墓の後円部の直径は160m

径百余歩に合わないんだよ
87日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:15:21.95
ふぁ?
池沼は書き込むな
88日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:16:32.48
>>87>>85へのレス
89日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:17:52.25
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
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アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


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.
90日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:23:10.47
>>978
>コロボックル伝説があるのは北海道だよ
つまり裸国や黒歯国があるのはそのあたり

「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
であるから、「復在其東南、船行一年可至」の「東南」方向であり、
北海道は、足摺付近から東北であるから、×。
91日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:24:49.59
>>86
>箸墓の後円部の直径は160m
>径百余歩に合わないんだよ

どうして?
「百余歩」だけど?
92日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:26:24.27
>>87
反論できないで悪口は敗北の証拠
93日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:32:21.88
>>979
>>不彌國や邪馬壹國女王之所都で萬二千余里がほぼ終わっており、

>そこで終わっているなら

陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の文は、「女王國」の位置説明文であり、
「女王國」の範囲は投馬國を含むので「ほぼ九州島付近」であり、
博多湾岸近くの不彌國のすぐ南の女王之所都で終わっていないから、×。

>陳寿がどう計っても河南省の東から出ないので 九州説死亡

陳寿がどう計っても揚子江河口の南北海岸付近の東から出ないので
大和説死亡
94日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:47:17.42
>>91
あんぽん?

160mなら、径百十余歩のはずだろうが

径百余歩はむしろ黒塚古墳の方が近いんだよ

黒塚古墳の全長は134mだが、濠を入れるとちょうど145m前後になるんだよ
95日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:48:29.74
>>78

移民が多い北部九州は、人民が政治に参加する共和制というより
一部の商人が富を保有する華僑の都市や堺だろうな
民衆は置いてけぼりみたいな
96日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:48:39.81
>>981
>>また七万戸の邪馬壹國は、
博多湾岸の不彌國から南へほぼ0里の位置に入り口があった事になるから、

>まーた里数詐欺をやってるな。 その根拠にしたという周旋五千里の積算内訳には、
女王国の入り口からその東の海岸港(推定豊国中津)までの循沿岸陸行里数(推定1500里)が算入されておらず、
ここをごまかしているではないか。

女王國の範囲はほぼ九州島付近であり、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
の「女王國」から「東渡海」であるから、女王國の東の出口の海岸付近になり、
だから、出発地は、宇佐〜国東半島付近、と言っていたのである。
また、「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」においても、
あくまで九州島付近の女王國から「参問した倭地」部分の里数を言っており、
ほぼ九州島内の女王國内自体の移動里数は、計測されていない。
97日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:52:50.94
>>982
>つまり短里なんて存在しなくて 九州説死亡

つまり、陳寿の三国志での「魏朝代での里記載」は、
ほぼ全て「周里(=短里)」に統一して書かれており、
大和説、死亡。
98日本@名無史さん
2020/03/31(火) 14:59:50.30
>>983
>畿内説脂肪
頼みの綱だった桃の種も祭祀説とは無関係と判明
405 名無しさん@1周年 [sage] 2020/03/31(火) 08:20:37.09 ID:8eBk6xUl0
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
桃の種の穴って柵と重なってるんだよな
柵ができてからは物理的にも
穴は使われなくなった可能性がある

成程。
99日本@名無史さん
2020/03/31(火) 15:02:54.49
ほんの数レスで畿内説が論破されてしまったのだな
100日本@名無史さん
2020/03/31(火) 15:07:21.61
>>96
>あくまで九州島付近の女王國から「参問した倭地」部分の里数を言っており、
>ほぼ九州島内の女王國内自体の移動里数は、計測されていない。

またまた里数詐欺をやってるな。
その女王国の外縁を起点にした放射参問説というのは、典型的な日本人自己中心の読み方だよ。それにその積算でも、まだ100里合わない。
ま、洛陽・帯方郡の漢族から見れば、全くお笑いの読みだな。
101日本@名無史さん
2020/03/31(火) 15:08:18.91
>>93
>陳寿がどう計っても揚子江河口の南北海岸付近の東から出ないので

北部九州が揚子江河口の東とか、ありえないので
九州説死亡
102日本@名無史さん
2020/03/31(火) 15:08:38.35
>>990
>晋書宣帝紀 孟達が言った 「宛は洛陽から800里、新城郡から宛まで1200里」 短里はなかった。戯言だった晋書宣帝紀 孟達が言った 「宛は洛陽から800里、新城郡から宛まで1200里」 短里はなかった。戯言だった

晋書は、唐代に書かれた史書であり、
宣帝紀での孟達の発言であるから、まだ(魏代ではなく)「後漢代」での発言であるから、
短里時期にはなっておらず、長里での発言であって当然であり、
この投稿男が×。
103日本@名無史さん
2020/03/31(火) 15:08:40.22
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


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.
104日本@名無史さん
2020/03/31(火) 15:16:36.15
>>94
>160mなら、径百十余歩のはずだろうが

根拠は?
ないよね?

あんぽんさん
105日本@名無史さん
2020/03/31(火) 15:18:21.36
>>992
>お笑い、「正北抵新羅」まさに戯言だ、「南與越州相接」と書いてある。日本は台湾か?

「接」は、三国志では地理的にくっついている、という使い方であったが、
唐会要では、国と国との関係が(敵対的ではなく)友好的で密接である、
と言う意味に使われており、
また「西北接百濟、正北抵新羅」とあるように、倭国はほぼ、
百済のほぼ東南方向と新羅のほぼ真南方向の交点であるような説明であるから、
その書き方でも北部九州にはぴったりであり、
大和は完全に×。
106日本@名無史さん
2020/03/31(火) 15:23:40.99
>>105
>唐会要では、国と国との関係が(敵対的ではなく)友好的で密接である、
>と言う意味に使われており、

証拠ださずに言い張るのは簡単
でも、それでは反論にならない
107日本@名無史さん
2020/03/31(火) 15:24:01.44
>>104
根拠しかないだろw

超あんぽんw
108日本@名無史さん
2020/03/31(火) 16:03:27.01
>>107
なにも具体的なことが答えられない九州説が惨めを晒した
109日本@名無史さん
2020/03/31(火) 16:21:24.34
話をそらすな

箸墓は以下5点に適合する古墳なのか?
@有棺無槨
A土を盛った塚
B径100歩
C殉葬約100名
D250年頃建造
110日本@名無史さん
2020/03/31(火) 16:31:01.43
>>109
そうだが、異議があるなら聞くからどうぞ
111日本@名無史さん
2020/03/31(火) 16:38:56.62
>>110
限りなく0点に近いな
112日本@名無史さん
2020/03/31(火) 16:51:38.41
想像を省いた場合、畿内説はいったい何を根拠にしてんだ?
113日本@名無史さん
2020/03/31(火) 16:54:13.44
>>111
理由は?

九州説は、また理由なく結論か
だから学問の世界にいられない
114日本@名無史さん
2020/03/31(火) 16:55:37.62
>>112
確認された事実
115日本@名無史さん
2020/03/31(火) 17:03:22.32
実体無き事実とは?
夢?w
116日本@名無史さん
2020/03/31(火) 17:21:17.47
100名の殉葬者の痕跡なんてある訳ない

骨は溶けて消えてしまうんだから
117日本@名無史さん
2020/03/31(火) 17:25:59.66
>>108
だから160mなら、径百余歩じゃなくて径百十余歩になるだろがカス

それにオレは九州説じゃないぞ
118日本@名無史さん
2020/03/31(火) 17:30:03.30
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1
119日本@名無史さん
2020/03/31(火) 17:36:25.84
>>113
おや?
適合の証拠を何も出せず現実逃避する妄想畿内教信者ですか?
定期的に通院しろ
120日本@名無史さん
2020/03/31(火) 17:47:36.93
畿内からは景初や正始と魏の年号の入った三角縁神獣鏡や
方格規矩鏡や画文帯神獣鏡が見つかる
景初や正始は倭人伝によれば卑弥呼が魏に遣いを送った年とある
121日本@名無史さん
2020/03/31(火) 17:52:43.72
>>994
>劉備は夷陵の戦いで巫県から夷陵まで700里の間、数十の陣営を作った。
魏の文帝は言った
「劉備は戦術を知らない、700里にわたって陣を布いて、敵を防ぐ手段があろうか」
短里などなかった<

夷陵の戦いであるなら、後漢から魏に変わる時期であるから、
まだ後漢朝の(長)里である可能性があるし、魏朝の(短)里である可能性もあるし、
また後代の三国志演義の記載であれば、使用里がいずれであるか?が不明であるし、
また「文帝の発言」と書かれても、
即位前の曹丕の時代の発言なのか?、即位後の文帝時代の発言なのか?も不明だし、
「数十の陣営」を仮に35陣営位としても、700里なら平均20里間隔になり、
長里なら平均9.7km間隔であり、短里なら1.5km余りの間隔になり、
長里では少し長過ぎて急場には間に合わない可能性もあるが、
短里では、全く問題のない間隔。
この投稿氏は、一体何を言いたいのか?がさっぱり分からない。
122日本@名無史さん
2020/03/31(火) 17:54:45.01
会稽東冶の東はどうした?

「混一疆理歴代国都之図」
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
123日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:00:07.83
>>999
文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的確率的な検討をして、
確率の高い推論をするのが九州説学者や大和説者。

文献考古の現場の状態と常に逆の嘘つき騙しの感想を言うのが
大和説者や大和説学者
124日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:00:39.93
箸墓古墳は、墳長が約278メートル、後円部の直径が約150メートルであり「百余歩」よりも桁違いに大きい。
長里なら、「百余歩」は、180メートル強だから、後円部の直径にほぼ等しいが、墳長としては短い。
だから、箸墓古墳は、最初円墳として築造され、後に前方部分が付け加えられたという後円部先行説がかつて唱えられた。

『三国志』魏書東夷伝倭人条を含む『三国志』では、「塚(冢)」と「墳」が
区別されていたことに注意しよう。
『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という諸葛亮伝
の発言や、通常、大君公侯の墓が「墳」であったという記事があり、高さのある
人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を
「冢」というように区別していたことが窺える。


なるほどねえ
125日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:00:54.35
>>1000
つまり、大和説は死んでいる
126日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:03:20.54
卑弥呼が九州にいるとするなら卑弥呼は何という氏族?
127日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:08:20.19
>>117
>だから160mなら、径百余歩じゃなくて径百十余歩になるだろがカス

なるって理由は?
128日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:14:04.63
>>127
160÷1.38=115.94・・・
129日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:21:04.90
>>128
何それ

また九州説は説明不能?
130日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:23:50.27
>>124
でたらめの解釈で生き残ろうとしても無理でしょ

冢は高墳なり、だからね
131日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:25:04.66
箸墓は以下5点に適合する古墳なのか?
それぞれの根拠を提示せよ

@有棺無槨
A土を盛った塚
B径100歩
C殉葬約100名
D250年頃建造
132日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:32:34.77
>>131
>@有棺無槨

発掘してないのに、ばか?
ま、日本の古墳に槨なんて無いから問題にならないが

>A土を盛った塚

盛ってるよね当然


>B径100歩

だいたいよし


>C殉葬約100名

確認不可能なんだから誤った問いは全員正解


>D250年頃建造

考古学的に吉


ということで、箸墓で問題ないな
133日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:35:34.23
箸墓に槨があるか調査してる最中なんだが、畿内説も情報を入手出来てないのか?
都合悪い情報は徹底的に非公開かよ?
134日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:38:04.69
>>133
調査してるって、証拠は?
135日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:41:16.18
>>133
>都合悪い情報は徹底的に非公開かよ?

都合悪い情報が存在するという証拠は?
九州説は、また捏造?
136日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:43:52.54
ここに来るのは畿内教信者であって教祖じゃないから知らないんだろうね
137日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:45:29.27
>>136
つまり、また九州説はウソをついたのだな
138日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:47:59.66
>>136は、いつものアノ人
興奮するとアンカ付けなくなる癖のあるアノ人
139日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:50:17.94
>>136
俺は知ってるが畿内説じゃないよ
140日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:52:07.39
>>139
またイミフ呟く敗者

それは九州説
141日本@名無史さん
2020/03/31(火) 18:55:16.63
アンカ無しで呟いて、それに自己レスする変態さん出た
142日本@名無史さん
2020/03/31(火) 19:18:45.29
ミューオン
143日本@名無史さん
2020/03/31(火) 19:26:25.62
>>142
なあ、知ってるよなw
144日本@名無史さん
2020/03/31(火) 19:31:07.80
>>140
奥山は何も聞いてないのか?
145日本@名無史さん
2020/03/31(火) 19:52:21.71
畿内説に対して
何も反論できない蒙昧老人

それが九州説
146日本@名無史さん
2020/03/31(火) 20:02:19.17
邪馬台国は福岡にあった
147日本@名無史さん
2020/03/31(火) 21:30:39.13
前方後円墳は概ね槨ありだな。
148日本@名無史さん
2020/03/31(火) 21:31:15.85
このスレは畿内説に対する反論であふれているよ
149日本@名無史さん
2020/03/31(火) 21:40:53.57
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8


.
150日本@名無史さん
2020/03/31(火) 22:03:12.47

畿内説で今まで嘘ついてたけど
なんか咳と発熱が止まらない
嘘ついた罰が当たったのかな
もう畿内説やめるよ
嘘ついてまでやりたくない
151日本@名無史さん
2020/03/31(火) 22:05:47.84
>>150
九州説はそんなおかしなポエムに何か効果があると考えているのかな
なめられたものだ
152日本@名無史さん
2020/03/31(火) 22:36:51.99
>>151
奥山が釣れるw
153日本@名無史さん
2020/03/31(火) 22:45:21.47
>>74
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実や史料実態に、
反論ひとつ出来ない大和説が、
ヤケクソに大言壮語してて、藁
154日本@名無史さん
2020/03/31(火) 22:46:45.21
>>76
という証拠が絶対出せないから、
大和説は悲しいし、面白い
155日本@名無史さん
2020/03/31(火) 22:47:37.73
畿内説の爺さんを舐める?
そんな汚いことできないよw
黴菌の巣だし皺くちゃジジイじゃんw
156日本@名無史さん
2020/03/31(火) 22:50:14.76
>>77
というか、「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料実態への「反論」だという事の、
具体的なことが全く言えないのが大和説の特徴だね

このことが
「大和説は実は九州説に何も反論していない」
という命題を帰納的に証明してしまっているのだが
157日本@名無史さん
2020/03/31(火) 22:56:30.90
>>79
試しに誰か「九州説の南≠東や正北抵新羅などの正解釈」を具体的に表明するならば
大和説の人が「これが俺様の反論だ」とでも言わんばかりに口角泡を飛ばすのは
実は「俺様独自の大和説」を提唱してるだけだと、
簡単に証明できると思う
そしてそれが「決して証明できない大和説」であることも

つまり彼らが「証明とは何か」「反論とは何か」知らない
ということになるわけだが
158日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:01:50.14
>>80
ほら
そして「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料実態に反論出来る文献考古の証拠も無く、
できな反論証明も出来ない
最初から悪魔の証明に陥ってしまっている
これが常に大和説の致命傷になる
159日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:06:14.13
>>83
>古墳

九州倭国の筑紫の前方後円墳は3世紀半ば過ぎの那珂八幡などから。
大和の前方後円墳は、九州倭国の東征毛人五十五國の征服軍の石塚の3世紀末から。
160日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:11:22.19
>>85
>>適合する古墳なのか?
@有棺無槨
A土を盛った塚
B径100歩
C殉葬約100名
D250年頃建造

>箸墓がジャスト

箸墓は、
@有棺無槨は不明だし、
A土を盛った冢ではなく、前方後円墳だし、
B径100歩ではなく、径1000歩以上だし、
C殉葬約100名はないし、
D250年頃建造ではなく、4世紀の建造だし
161日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:17:02.34
>>91
>>箸墓の後円部の直径は160m
径百余歩に合わないんだよ

>どうして?
「百余歩」だけど?

前方後円墳のような不定形の「径」は「長径」でもって示すから、
280m余りは、銅誤魔化しても「百余歩」にはならない。
162日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:18:34.19
他人の投稿丸写しにして一部の単語を機械的にに書き換えたオウム返しは中身がウソになるので
九州説の汚点です
163日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:21:03.69
>>92
「南≠東」や「正北抵新羅」や「冢≠前方後円墳」や「不定形の径は長径」などの
史料実態に反論できない大和説者からの悪口は、
敗北の証拠
164日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:27:36.89
>>94
>あんぽん?
160mなら、径百十余歩のはずだろうが
径百余歩はむしろ黒塚古墳の方が近いんだよ
黒塚古墳の全長は134mだが、濠を入れるとちょうど145m前後になるんだよ

黒塚も、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「歩は短歩」や「4世紀」などに拠って、×。
165日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:28:36.23
前スレで誰かの投稿で
桃の種の発見状態が
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
とあったが

柵と桃とは年代が違うの?
166日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:31:06.75
>>165
もちろんw
167日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:33:15.36
2800個の果肉付き桃となれば結構な体積になるよな
小さい穴に埋まるわけが無いw
168日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:33:52.91
>>95
九州倭國の東征毛人五十五國で九州倭国に征服された大和は、
人民が政治に参加する共和制というより
在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族らを生口や守墓人にして墓造りをさせ、、
九州倭国の地方の市を監督する「大倭」職の旧小国だろうな
民衆は置いてけぼりみたいな
169日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:37:36.47
ここに邪馬台国があったという話では水掛け論なのでここに○○という一族がいた、この一族が邪馬台国を治めていた、みたいな話にすれば。
170日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:44:06.01
>>100
>>あくまで九州島付近の女王國から「参問した倭地」部分の里数を言っており、
ほぼ九州島内の女王國内自体の移動里数は、計測されていない。

>またまた里数詐欺をやってるな。
その女王国の外縁を起点にした放射参問説というのは、典型的な日本人自己中心の読み方だよ。それにその積算でも、まだ100里合わない。
ま、洛陽・帯方郡の漢族から見れば、全くお笑いの読みだな。

陳寿の国間距離の説明法は、
基点の国の居住外縁部(出口)から、目的地国の居住外縁部(入口)の間の距離なの。
例えば、日本と韓国の距離は、対馬北端から、韓国の巨済島や金海付近の里数になるの。
171日本@名無史さん
2020/03/31(火) 23:51:46.43
>>101
>>(女王國の位置は)陳寿がどう計っても揚子江河口の南北海岸付近の東から出ないので

>北部九州が揚子江河口の東とか、ありえないので 九州説死亡

この男(おそらく類スレ主)は、陳寿が、
「不彌國や邪馬壹國女王之所都」が北部九州だとし、
「ほぼ九州島付近」が女王國だとして、書き分けており、
会稽東治之東は、女王國の位置推定の文である事が判らない?、
・・・・アホ詐欺師。
172日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:03:02.83
>>108
「南≠東」や「正北抵新羅」や、
唐会要の「西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」の「接」は、
地理的に接していない使用であるが、
「其toku廬國與倭接界」の「接」は地理的に接している使用例である、
という事などに、なにも具体的な反論が答えられないので、
大和説者が、また惨めを晒した
173日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:06:25.48
>>113
理由は?
「南→東」や「正北抵新羅の黙殺」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説は、また理由なく結論か
だから学問の世界にいられない
174日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:07:52.04
>>165
掘立柱建物は4世紀
175日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:12:36.34
>>160
>前方後円墳のような不定形の「径」は「長径」でもって示すから、

素人のおじいさんが理由もなく結論だけ言い張っても
誰も信用しないよ
176日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:12:39.91
>>116
>100名の殉葬者の痕跡なんてある訳ない
骨は溶けて消えてしまうんだから

祇園山の墳裾の外周地域で調査された範囲からは、複数埋葬を含む、
合計六二基(甕棺3、石蓋土壙32、箱式石棺7、竪穴式石室13、構造不明7)にも及ぶ、
小型埋葬施設が検出されて、殉葬と判った。
また1号甕棺からは、成人女性の骨盤付近の骨も見つかった。
177日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:14:50.10
>>174
現場を調査した学者の公式発表とぜんぜん違うことを
理由もなく結論だけ言い張っても
誰も信用しないよ
178日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:16:31.88
>>176
>小型埋葬施設が検出されて、殉葬と判った。

現場を調査した学者の公式発表とぜんぜん違うことを
九州説ど素人が理由もなく結論だけ言い張っても
誰も信用しないよ
179日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:23:15.68
>>120
>畿内からは、

畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この大和説男も×。

>景初や正始と魏の年号の入った三角縁神獣鏡や
方格規矩鏡や画文帯神獣鏡が見つかる、

魏の楽浪攻撃で楽浪から九州に避難した呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、
大和の△は4世紀であり、画文帯はホケノの3世紀最末〜4世紀の鏡。

>景初や正始は倭人伝によれば卑弥呼が魏に遣いを送った年とある

景初三年鏡や正始元年鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏らの関与鏡であり、
明帝の下賜の銅鏡百ではない。
180日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:30:16.97
>>179
だから素人のおじいさんが理由もなく結論だけ断定断定しても
誰も信用しないよ
181日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:30:46.54
>>122
>会稽東冶の東はどうした?

後代史書の後漢書の「魏志の記載の書き換えになっている記載」は、
証拠にならないから、×。

>「混一疆理歴代国都之図」・・・

後代での、実地の見聞計測を伴わない地図も、
推定や想像で書かれた部分である事が見え見えであり、
根拠にならず、×地図。
182日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:32:13.79
>>123の訂正
文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的確率的な検討をして、
確率の高い推論をするのが九州説学者や九州説者。

文献考古の現場の状態と常に逆の嘘つき騙しの感想を言うのが
大和説者や大和説学者
183日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:38:50.46
>>126
>卑弥呼が九州にいるとするなら卑弥呼は何という氏族?

「姫氏」。
日本書紀私紀では、「倭國=東海姫氏國」とされ、
倭王武の次の倭国王哲の時までの倭国は、「東海姫氏國」と呼ばれた。
184日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:46:13.55
>>130
>>でたらめの解釈で生き残ろうとしても無理でしょ

>冢は高墳なり、だからね 」

「冢は高墳なり」とは、「冢=高墳」であり、
「冢≠墳」である、いう事。
つまり「冢は高さをはっきり感じられる墳丘」という意味であり、
馬韓伝の「居處作草屋土室、形如冢」の、「冢」の例証写真を見れば、
「錐体台」的な形状であった。
185日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:47:20.30
>>161
同意 
箸墓は円墳じゃないし
大作冢・・大きさを示すなら前方部から後円部までの長さになる
それ以前に 卑弥呼の墓と言う証拠が無い
186日本@名無史さん
2020/04/01(水) 00:47:40.08
>>182
>文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的確率的な検討をして、

実際そんなことをした形跡は全くないから
口先だけの詐欺だろう
187日本@名無史さん
2020/04/01(水) 01:01:33.81
>>132
>>A土を盛った塚

>盛ってるよね当然

「盛ってる」だけでは「冢」にはならない。「錐体台」的な形状でなければ、×。

>>B径100歩

>だいたいよし

(方形ではない)不定形の長径表現であるから、全く×。

>>C殉葬約100名

>確認不可能なんだから誤った問いは全員正解

日本で唯一、祇園山があり、
箸墓は、上空からや側面からの放射線透視をしても見つからなかったらしいから、×。

>>D250年頃建造

>考古学的に吉

箸墓は4世紀だから×だし、当然「南≠東」などに拠っても、×。
188日本@名無史さん
2020/04/01(水) 01:04:29.65
>>177
3世紀という根拠は何
189日本@名無史さん
2020/04/01(水) 01:06:08.16
>>145
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
九州説からの「南≠東」や「正北抵新羅」などの指摘に対して
何も反論できない蒙昧老人

それが大和説者や、大和説学者。
190日本@名無史さん
2020/04/01(水) 01:07:27.57
>>184
>「冢は高墳なり」とは、「冢=高墳」であり、
>「冢≠墳」である、いう事。

論理学を何も知らないのがバレバレです
191日本@名無史さん
2020/04/01(水) 01:11:09.88
>>151
大和説は、「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などのような、
そんなおかしな「史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しに、
何か効果があると考えているのかな
国民は、なめられたものだ
192日本@名無史さん
2020/04/01(水) 01:14:26.18
炭素年代は怪しいが
いまのところ、桃の種で新しいものは230年から250年
桃の種の出土位置が柵と重なっているから
柵と桃のいずれが先かと言う議論は畿内説でされていないのかなーーーーー
193日本@名無史さん
2020/04/01(水) 01:17:07.68
>>162
自分の投稿を丸写しにされて、
一部の嘘吐き騙しの単語を機械的に事実や史料実態に書き換えた「オウム返しされ」は、
中身が歴史の実態になるので
大和説の汚点です
194日本@名無史さん
2020/04/01(水) 01:29:53.98
>>178
>>(祇園山)小型埋葬施設が検出されて、殉葬と判った。

>現場を調査した学者の公式発表とぜんぜん違うことを

調査した学者は、
殆どが「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説信者である事がはっきりしているから、
そんな詐欺師学者の、発掘事実報告はある程度信用出来ても、
その発掘事実の解釈や推定内容報告は、全く信出来ず、×なんだよ。

また「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説のど素人が、
理由もなく結論だけ言い張っても
誰も信用しないよ
195日本@名無史さん
2020/04/01(水) 01:56:44.42
>>189
>九州説からの「南≠東」や「正北抵新羅」などの指摘に対して

反論されてるから、これは九州説いつもの真っ赤なウソ
196日本@名無史さん
2020/04/01(水) 02:08:42.73
>>195
「南≠東」の反論あったっけ????
197日本@名無史さん
2020/04/01(水) 02:35:15.69
>>196
何考えてる?
不思議
それに反論したことのない者は畿内説に一人もいないんだが
198日本@名無史さん
2020/04/01(水) 04:22:15.91
>>197
どういう反論?
末盧から伊都は東南じゃ無い一辺倒じゃなかったかな
これへの反論は、多くなされている。

あとは苦し紛れの根拠のない誤写・誤認とでも言うのかい
199日本@名無史さん
2020/04/01(水) 04:28:38.63
邪馬台国畿内説は以下の3通りのシナリオのいずれかに必ず当てはまる。
1、南という字は東の間違いである
2、東を南と方位を間違った
3、魏志倭人伝を無視する

いずれも、憶測の域を出ない
200日本@名無史さん
2020/04/01(水) 06:32:44.78
>>192
>柵と桃のいずれが先かと言う議論は畿内説でされていないのかなーーーーー

されていない
都合の悪いことは伏せるのが畿内説
201日本@名無史さん
2020/04/01(水) 06:44:50.48
>>199

3バカ畿内説?
202日本@名無史さん
2020/04/01(水) 08:20:22.39
>>201
畿内説がバカなのは説というより、この世の原理の一つ
203日本@名無史さん
2020/04/01(水) 08:38:06.35
>>183
卑弥呼はどこに住んでいた?
投馬国はどこ?
狗奴国はどこ?
204日本@名無史さん
2020/04/01(水) 09:16:22.65
>>200
>されていない

それはもちろん真っ赤なウソ
ちゃんと公式報告でてる
九州説ウソつきすぎ
205日本@名無史さん
2020/04/01(水) 09:29:10.72
>>192
>炭素年代は怪しいが
いまのところ、桃の種で新しいものは230年から250年
桃の種の出土位置が柵と重なっているから
柵と桃のいずれが先かと言う議論は畿内説でされていないのかなーーーーー

桃の種も、
AMS法のプラズマ化に拠って、50〜100年位古い年代が出ているので、
「230年から250年」にはならないでしょうね。
206日本@名無史さん
2020/04/01(水) 09:32:34.89
>>205
>>柵と桃のいずれが先かと言う議論は畿内説でされていないのかなーーーーー

>されていない
都合の悪いことは伏せるのが畿内説

ふーん、成程。
207日本@名無史さん
2020/04/01(水) 09:42:31.28
>>199
>いずれも、憶測の域を出ない

なーんて断定する理由は?
九州説はいつも理由を言わない。

学問じゃないから
208日本@名無史さん
2020/04/01(水) 09:48:00.01
>>203
>卑弥呼はどこに住んでいた?

松野氏姫氏系図では、倭奴國王以前から「大野」という場所に居た事になり、
だから、女王之所都は、弥生銀座から太宰府付近の間のどこか。
古田さんは、安徳台に比定。

>投馬国はどこ?

南九州。
古田さんは、投馬國の前身の東テイ人の中心は、薩摩の上野原遺跡説。

>狗奴国はどこ?

肥後。
209日本@名無史さん
2020/04/01(水) 09:52:40.18
>>204
>それはもちろん真っ赤なウソ
ちゃんと公式報告でてる
九州説ウソつきすぎ

それで、その「庄内3や桃核のある土坑」と「柵」とじゃ、
どちらが古かったんかね?。
その根拠は何?。
210日本@名無史さん
2020/04/01(水) 09:57:44.13
>>200
>都合の悪いことは伏せるのが畿内説

伏せをしてうまくいった数々の体験があるのだろうな。
211日本@名無史さん
2020/04/01(水) 09:58:55.07
>>207
>>邪馬台国畿内説は以下の3通りのシナリオのいずれかに必ず当てはまる。
1、南という字は東の間違いである
2、東を南と方位を間違った
3、魏志倭人伝を無視する
いずれも、憶測の域を出ない

>それはもちろん真っ赤なウソ
ちゃんと公式報告でてる
九州説ウソつきすぎ

何故、その「公式報告」とやらを紹介しないの?。
大和説は、口先だけの反論での、ウソをつき過ぎ?。
212日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:11:00.73
古田は、あらかじめ女王国は大宰府付近と見当をつけておいてから論陣を張ったのだろう。
それが古代三世紀の九州王朝であり、神功皇后のような初代女酋長が治めていて、魏との交流にも熱心だった。
その百数十年後に本物の神功皇后が出て、半島まで荒らしまわったのだが、記紀はその二代目神功皇后を繰り上げて、三世紀の女酋長に仕立てた。
そんな見立てだったのだろう。
つまり、古田にとっては大宰府がすべての始まりだったわけだ。
213日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:11:33.01
>>208


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
214日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:12:07.04
>>208


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
215日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:12:37.95
>>208


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
216日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:13:10.06
>>208


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
217日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:13:43.10
>>208


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
218日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:14:15.08
>>208


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
219日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:14:52.41
>>208


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
220日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:18:03.25
>>203
>>卑弥呼はどこに住んでいた?
>松野氏姫氏系図では、倭奴國王以前から「大野」という場所に居た事になり

大分県にも大野(大野市)はある。
ここから日向へ越す街道筋には、古代から水銀や銅の大鉱山があったので、何かの所縁があったのかもしれない。
221日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:19:57.44
先代旧事本記が確定すると、相当な痛手を被るようだなwww
222日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:48:34.39
>>211
>何故、その「公式報告」とやらを紹介しないの?。

公式報告とか言ってなのでは?
また九州説が嘘ついた
223日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:57:41.72
記紀以前の倭の国々は滅亡済。倭国と天皇家を繋いでいるのは卑弥呼=神功皇后だけ。
224日本@名無史さん
2020/04/01(水) 10:59:29.32
新唐書の日本伝に、隋の開皇末に初めて中国と通じた、と書かれている
畿内厨はこれにどう反論する?
225日本@名無史さん
2020/04/01(水) 11:35:31.99
記紀の百襲姫を卑弥呼に比定する説が有力みたいだけど、記紀から卑弥呼と台与は一切削除されてると思うね

一切削除して、三國志の卑弥呼とやらは神功皇后なのでは?とスットボケてると思うね
226日本@名無史さん
2020/04/01(水) 11:48:49.56
畿内説辞めた、マスコミに騙されてた。
227日本@名無史さん
2020/04/01(水) 12:06:23.24
畿内説で正しいんだが、箸墓推しが駄目なんだっての

ネット中に卑弥呼陵=箸墓としか書かれてないんだよ

糞だわ

3C中頃に作られた百余歩に近い奈良盆地の古墳って結構あるのに何も検証しないでやんの

一切の検証放棄だよ
228日本@名無史さん
2020/04/01(水) 12:12:19.96
>>208

投馬国の南に邪馬台国があるのだが。
そしてその南に邪馬台国その南に狗奴国。
それに遠くに在って国名だけしか分からない21ヵ国は?


> >>203
> >卑弥呼はどこに住んでいた?
>
> 松野氏姫氏系図では、倭奴國王以前から「大野」という場所に居た事になり、
> だから、女王之所都は、弥生銀座から太宰府付近の間のどこか。
> 古田さんは、安徳台に比定。
>
> >投馬国はどこ?
>
> 南九州。
> 古田さんは、投馬國の前身の東テイ人の中心は、薩摩の上野原遺跡説。
>
> >狗奴国はどこ?
>
> 肥後。
229日本@名無史さん
2020/04/01(水) 12:13:11.33
そういうことだろな。
半島を荒らしまわり、唐・新羅軍にも襲い掛かった倭軍は、
三世紀の神功皇后、つまり魏志にいう卑弥呼の流れだったのですよー、といって唐・新羅に弁明し、
本当の首領の大和朝廷は雲隠れ責任逃れしようとした・・・、
230日本@名無史さん
2020/04/01(水) 12:18:30.36
畿内説のほぼ全てが空想物語なんだけど

提言してるのは何処の馬鹿学者なんだ?
231日本@名無史さん
2020/04/01(水) 12:39:55.60
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
232日本@名無史さん
2020/04/01(水) 12:40:18.27
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.
233日本@名無史さん
2020/04/01(水) 12:58:17.22
>>228
>投馬国の南に邪馬台国があるのだが。

漢文を勉強しなおせ。
234日本@名無史さん
2020/04/01(水) 12:59:56.25
>>208
>古田さんは、投馬國の前身の東テイ人の中心は、薩摩の上野原遺跡説。

ナマズは肥前だよ。
壹與の都、川上神社の神使がナマズ。
235日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:15:39.20
>>233
投馬国の南に邪馬台国があると書かれているよ
九州説の人は漢文を勉強したことがないのだね
236日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:21:22.39
ナマズ信仰は江戸時代
237日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:29:14.62
とりあえず不彌国起点にして、
水行二十日と、水行十日プラス陸行一月では、どちらが遠いかな〜、という書き方だろう。
238日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:31:31.05
古田が教えていた学校

等身大の在日理解へ 兵庫県立湊川高校の「人権教育」 民団新聞
https://mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=4&;page=327&number=4481&keyfield=&keyfield1=&key=
239日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:33:33.63
倭人伝をそのまま読めば、邪馬台国はせいぜい九州南部だろ

でも九州南部に九州北部を含めた30ヶ国を従えてた巨大勢力があった史実も痕跡も
ない

それにその南の対戦国の狗奴国は鹿児島あたりしかないよね

そんな狭い範囲の話だとも思えないし、だいたい九州南部に3C中頃の径百余歩の
古墳もほとんどない

結局、邪馬台国は大和国しか選択余地がないんだよね
240日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:35:03.51
フルタは大宰府かぶれ。
大宰府に合うよう途中の行程をやりくりしたが、けっきょく算数的に破綻した。最後のころには、本人もわかっていたのだろう。
241日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:40:54.79
>>239
ま、そう結論を急ぐな。
あるところにはきちんとある。最高の神話という形でな。それに古墳ではないが、丘陵を利用した塚(ちょう)もある。
242日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:41:25.91
>>233
連続した行程の場合は「又南至」と記述される
243日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:42:38.24
箸墓古墳は、墳長が約278メートル、後円部の直径が約150メートルであり「百余歩」よりも桁違いに大きい。
長里なら、「百余歩」は、180メートル強だから、後円部の直径にほぼ等しいが、墳長としては短い。
だから、箸墓古墳は、最初円墳として築造され、後に前方部分が付け加えられたという後円部先行説がかつて唱えられた。

『三国志』魏書東夷伝倭人条を含む『三国志』では、「塚(冢)」と「墳」が
区別されていたことに注意しよう。
『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という諸葛亮伝
の発言や、通常、大君公侯の墓が「墳」であったという記事があり、高さのある
人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を
「冢」というように区別していたことが窺える。
244日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:45:08.91
>>242

行程で「又」が使われているのは渡海だけ
245日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:48:35.42
>>243

棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を
大作冢とは書かない
246日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:48:45.36
>>244
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。

邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚

邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬嘉(臺)国。

※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている
247日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:52:09.83
>>246

邪馬嘉国みたいなもんはどこでもよい
248日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:54:37.98
>>273
箸墓の後円部は160mだぞ

160÷1.38=115.94

径百余歩じゃなくて径百十余歩のはず

それ以前にわざわざ後円部の直径なんか報告しない

ふつうはまず全長を報告するはず

そろそろ箸墓教から脱却したら?
249日本@名無史さん
2020/04/01(水) 13:59:04.16
アンカくらいまともにつけろよ
250日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:00:19.18
>>227
>畿内説で正しいんだが、箸墓推しが駄目なんだっての

「畿内」なんてのは、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×なのであり、
大和説自体が「南≠東」や「正北抵新羅」などで、始めから×であったんだよ。

>ネット中に卑弥呼陵=箸墓としか書かれてないんだよ  糞だわ
3C中頃に作られた百余歩に近い奈良盆地の古墳って結構あるのに何も検証しないでやんの
一切の検証放棄だよ

それも、「南≠東」などに拠って、始めから×なの。
251日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:04:11.84
唐會要(961年)
「倭國 古倭奴國也 在新羅東南 居大海之中」
新唐書(1060年)
「日本 古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南 在海中」
舊唐書(945年)
「倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中」
北史 (659年)
「倭國在百濟新羅東南」
隋書(656年)
「倭國在百濟新羅東南」
宋書(488年)
「倭國 在高驪東南大海中」
後漢書(432年)
「倭在韓東南大海中」
252日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:08:14.13
>>247
話をそらすな
253日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:10:38.65
>>252

邪馬嘉國だろ?
お前が決めた又ルールは陳寿は使っていない
254日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:11:19.36
>>251
卑弥呼のいない時代に特別何かこだわりがあるのか?w

「邪馬台国」「女王国」「卑弥呼」が登場する最も古い記録は魏志倭人伝のみ
255日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:11:59.03
>>253
邪馬嘉國=邪馬臺国
256日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:14:08.38
>>255

誤字だらけの翰苑の書写なんぞ根拠にならん
257日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:15:40.61
>>254

倭人伝に正北抵新羅なんぞ書いてない
258日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:16:54.32
都合の悪い史書には目を背ける事しかできない畿内説あわれ
259日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:20:21.08
>>258

>>251
260日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:24:17.38
>>228
>投馬国の南に邪馬台国があるのだが。

ならない。
投馬國の説明には、途中移動があった事を示す文言がないから、
投馬國説明は、(魏の役人らの「主行程」ではなく)、
側副傍線行程の国の不彌國からの、
(南方の水行二十日の距離にある国の)位置などの説明になる。
そして、邪馬壹國女王之所都は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
不彌國とほぼくっついて存在していた事になる。

>そしてその南に邪馬台国その南に狗奴国。

そして不彌國の直ぐ南に邪馬壹國女王之所都、その南に狗奴国。

>それに遠くに在って国名だけしか分からない21ヵ国は?

魏使らや陳寿は、「其餘旁國」と「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とを、
はっきり書き分けているから、別の違うタイプの、部族集団であり、
「21ヵ国」は、ほぼ九州島付近、という事になる。
261日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:29:08.84
>>257
壱岐対馬が北〜南だと書いてあるな

魏志倭人伝の記述
至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜
又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市糴 

つまり対馬←→壱岐位置関係が南北だな
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚

そして邪馬台国は南
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
262日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:32:19.45
>>261

南のどこ?
263日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:36:27.00
>>261

倭人在帶方東南大海之中だから
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
の南じゃだめだぞ
264日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:36:42.06
>>243
>>245
>『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という諸葛亮伝の発言や、、、

山に因りて墳を為し・・、とは、それらしい形の山稜を利用して墳と見做し、其の上に棺を覆うだけの盛り土をすれば十分である、といっているわけだ。
墳の代わりに自然形の山稜を利用するといっても、それなりの整形・そうじ・参道つくりは必要だったであろう。
又、奴婢100余名をお供させるにもなにがしかの準備は必要だ。
合わせて、径百余歩の広さにわたってあれこれ大造作を施したという意味だろう。
265日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:37:06.26
>>229
>そういうことだろな。
半島を荒らしまわり、唐・新羅軍にも襲い掛かった倭軍は、
三世紀の神功皇后、つまり魏志にいう卑弥呼の流れだったのですよー、
といって唐・新羅に弁明し、
本当の首領の大和朝廷は雲隠れ責任逃れしようとした・・・、

違うね。
倭國の本当の首領は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、北部九州の倭國。
また大和朝廷など存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和日本国は、ずっと九州倭国の別種分家の旧小国であったのであり、
開皇末に小野妹子が隋の文帝に「日本国」を称して叱られ、
唐の武徳中になって初めて「日本国」号を認められ、
倭國は白村江の大敗で、倭國を併合吸収継承して、701年の「大宝」建元で、
盟主になれたの。
266日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:39:30.46
>>234
>ナマズは肥前だよ。
壹與の都、川上神社の神使がナマズ。

ふーん。
267日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:43:04.84
>>264

つまり前方後円墳の前方部が墳、後円部が冢
268日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:44:32.58
>>253
「邪馬嘉國」は唐時代の書に出てくる。つまりここの「嘉」は好字令に合わせた文字と見るべし。

又一海を渡る、又南渡る、
同じ態様の直列・連続する行程には又を用いている。陳寿の書に於いて、くだんの南至は二股並列行程と読むべきだろう。
269日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:47:23.85
>>235
>投馬国の南に邪馬台国があると書かれているよ
九州説の人は漢文を勉強したことがないのだね

投馬國は、不彌國からの側副傍線國の説明であり、主行程ではないから×。
主行程は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
その次の「南至邪馬壹國女王之所都」には、
至の前に「移動があった事を示す文字や里数がない」から、
不彌國から南にほぼ0里であった事になる。
270日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:48:55.48
>>267
前方部は自然山稜には見えないぞ、まさに壮大な盛り土だ。
271日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:49:58.63
>>268
そんな暗号文みたいば文章誰も書かねえよ
272日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:50:42.08
>>268

翰苑の書写の誤字は嘉だけじゃない
後期高齢者用右下パズルは脳内で好きなようにやっていい
その比定地に見つかっている遺跡からレスを始めろ
273日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:51:48.77
>>270

墳は自然山稜じゃないから
274日本@名無史さん
2020/04/01(水) 14:55:03.17
>>269
途中移動があった事を示す文言とか側副傍線國とか
現代人の発明がんばっても
パズルごっこで邪馬台国解決しねーよ
275日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:00:23.98
あれ?
畿内説は史書の方角は信じないんだよな?
え?畿内説も方角を信じるの?
じゃあ畿内説は終了しましたね
bye
276日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:05:26.41
>>237
>とりあえず不彌国起点にして、
水行二十日と、水行十日プラス陸行一月では、どちらが遠いかな〜、という書き方だろう

不彌國やそれからほぼ0里の邪馬女王之所都で、萬二千余里がほぼ終わっているから、×。
277日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:09:55.30
>>276
そこで萬二千余里がほぼ終わったなら
会稽東治之東には絶対ならないから
九州説終了
278日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:13:40.12
>>239
>倭人伝をそのまま読めば、邪馬台国はせいぜい九州南部だろ

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この大和説男は×であり、
萬二千余里は、不彌國や邪馬壹國女王之所都で終わっており、
「正北抵新羅」などに拠ってもなど倭國中心は北部九州であるから、
「せいぜい九州南部」と言ったこの大和説男は、また×。

>でも九州南部に九州北部を含めた30ヶ国を従えてた巨大勢力があった史実も痕跡も
ない それにその南の対戦国の狗奴国は鹿児島あたりしかないよね
そんな狭い範囲の話だとも思えないし、だいたい九州南部に3C中頃の径百余歩の
古墳もほとんどない 結局、邪馬台国は大和国しか選択余地がないんだよね

大和国は、「南≠東」などに拠って、始めから、×。
279日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:17:51.12
>>240
この男も「南→東」や「正北抵新羅の無視」の嘘吐き騙しの大和説かぶれ。
大和に合うよう途中の行程をやりくりしたが、
けっきょく算数的に方向里数ともに破綻した。
この投稿が嘘吐き騙しである事は、本人もわかっていたのだろう。
280日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:24:13.17
>>277
九州だろうが畿内だろうが、「会稽東治之東」を
基準にしても意味ないだろw
しかも倭人伝には
「道里を計算すると、会稽東治の東あたりだ」
という陳寿の推測を表す文だぞ?

「混一疆理歴代国都之図」
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
281日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:25:46.88
>>245
>棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を
大作冢とは書かない

「大作冢」は、「作大冢=大きな冢を作る」ではなく、
「大いに、冢を作る」であり、「冢を作る事がたいそうであった」、という意味。
282日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:26:20.01
>>280

つまり道里は間違っているので行程では比定できない
283日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:28:10.86
>>281

棺を入れるのに十分な程度の冢を作る事はたいそうではない
284日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:28:53.17
畿内説は箸墓教から脱却すべきだよ

卑弥呼と台与は存在を抹殺されて記紀なんかには記載されていない人物だと
思った方がイイ

純粋に3C中頃の全長が百余歩くらいの奈良盆地の古墳を一つ一つ検証していくべきだよ
285日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:33:16.68
>>275
特定の誰かに話しかけられないコミュ障九州説は自宅に篭って静かに膝抱えてなさい
会話のできないあなたのいう言葉は他人に理解できないから書いても無駄
286日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:33:39.25
史実を受け入れることのできない畿内説は統失悪化中あわれ
287日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:36:58.60
>>286
それ、具体的にはどういうこと?
説明して
288日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:40:06.69
>>251
>唐會要(961年)
「倭國 古倭奴國也 在新羅東南 居大海之中」
新唐書(1060年)
「日本 古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南 在海中」
舊唐書(945年)
「倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中」
北史 (659年)
「倭國在百濟新羅東南」
隋書(656年)
「倭國在百濟新羅東南」
宋書(488年)
「倭國 在高驪東南大海中」
後漢書(432年)
「倭在韓東南大海中」

この文献は、いずれも九州倭国の「東征毛人五十五國」の結果、
倭國の支配領域が本州に広範囲に広がった「全体」の方向を示そうとしており、
しかし、唐会要倭國伝の本文での
「西北接百濟、正北抵新羅、正北抵新羅」という表現に合うのは、
「西北接百濟」に合うのは関門海峡〜筑紫であり、
「正北抵新羅」に合うのはほぼ長崎であるから、
結局は「倭國の中心部の位置」としては、北部九州を指していた事になる
289日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:43:23.28
>>281
しょぼく小さな墓を作って「大作冢」と言ったら
ウソつきだよね
290日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:45:01.71
>>288
はるか後世の人の
「自己解釈:の典型をありがとう
291日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:46:28.13
>>284
>畿内説は箸墓教から脱却すべきだよ

理由は?
292日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:48:46.58
どの墓を基準に大きく造ったと思ったんだろうね
293日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:51:31.30
>>264
>>『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という諸葛亮伝の発言や、、、

>・・・合わせて、径百余歩の広さにわたってあれこれ大造作を施したという意味だろう。

これはダメだ。
「冢は棺を容るるに足る」という事は、
棺を入れるに足る大きさの盛り土の冢であれば十分だ、という意味であり、
「大造作を施した」なんて意味はどこにもないから、×だ。
294日本@名無史さん
2020/04/01(水) 15:56:52.77
>>267
>つまり前方後円墳の前方部が墳、後円部が冢

これもダメだ。
前方後円墳の全体形態が、「冢(=錐体台的形状」になっていないから、×だ。
295日本@名無史さん
2020/04/01(水) 16:08:29.31
>>294
それもダメだ。
そんな条件、現代人の素人爺さんが独断で発明しても、×だ。
296日本@名無史さん
2020/04/01(水) 16:10:29.89
>>292
呉が作った、中を車が通れるような墓
297日本@名無史さん
2020/04/01(水) 16:25:05.63
>>273
>墳は自然山稜じゃないから

卑弥呼の墓は、径百余歩の自然山稜を墳と見做して利用し、その上のどこかに冢をこしらえたのだろう。
大作冢の記事には、それが一番ふさわしい解釈だ。
298日本@名無史さん
2020/04/01(水) 16:26:41.19
>>245
棺を入れるのに十分ならそれで十分だよ?
299日本@名無史さん
2020/04/01(水) 16:27:19.08
神戸の朝鮮ジジイは駄レス末尾の<を付け忘れるな
300日本@名無史さん
2020/04/01(水) 16:32:44.89
>>263
倭人在→倭人が居る

東の倭種の国も含むんだから何の疑問も無いが?
301日本@名無史さん
2020/04/01(水) 16:37:22.13
>>300

倭人が帶方の南に居るなどとは書いてない
302日本@名無史さん
2020/04/01(水) 16:45:58.42
九州説はいつも倭人伝無視だね
303日本@名無史さん
2020/04/01(水) 16:50:53.85
いつも以上につまらない畿内説の難癖タラタラタラタラw
304日本@名無史さん
2020/04/01(水) 16:55:54.64
>>297

山を墳として冢は棺を入れるのに十分であればいい
副葬品も要らない、喪服は普段着でいいと遺言を残したのは諸葛亮
卑弥呼とは関係ない
305日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:03:05.36
>>304の訂正

喪服 → 死装束「斂以時服」
306日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:09:06.39
倭国伝に出てくる七万余戸邪馬台国は大和、五万余戸投馬国は出雲だと思う。
倭国大乱のあと邪馬台国の卑弥呼を女王とすることで国がまとまったということは出雲が大和にトップの座を譲ったということ。
記紀に記述がある国譲りではないだろうか。
307日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:28:54.86
>>277
>そこで萬二千余里がほぼ終わったなら
会稽東治之東には絶対ならないから
九州説終了

萬二千余里がほぼ終わったのは、北部九州の不彌國や邪馬壹國女王之所都であり、
陳寿の「会稽東治之東」は「女王國全体の位置推定」であり、
南九州の投馬國も含むから、女王国全体は「ほぼ九州島付近」になり、
会稽東治之東もほぼ九州島付近になるから、
ハイ、大和説や類スレ主らは、終了。
308日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:34:11.10
>>282
>つまり道里は間違っているので行程では比定できない

つまり魏の役人らや陳寿が記録記載した道里はほぼ間違っていないので
行程で「ほぼ北部九州」と比定できと、
唐会要の「正北抵新羅」とも一致する。
はい、大和説終了
309日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:37:06.27
>>283
>棺を入れるのに十分な程度の冢を作る事はたいそうではない

「jun葬者奴婢百餘人」もの陪葬墓も造ったから、「たいそう」であった。
310日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:37:48.87
>>306
>記紀に記述がある国譲りではないだろうか。

国譲りを受けて天孫が王として即位したのは筑紫においてでした。
つまり筑紫が王都でした。
大和はまだまだ未開の土地。
311日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:38:39.02
国内外のあらゆる史書を否定しないと成り立たないのが畿内説。
312日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:42:41.36
>>284
>畿内説は箸墓教から脱却すべきだよ
卑弥呼と台与は存在を抹殺されて記紀なんかには記載されていない人物だと
思った方がイイ

賛成です。

>純粋に3C中頃の全長が百余歩くらいの奈良盆地の古墳を一つ一つ検証していくべきだよ純粋に3C中頃の全長が百余歩くらいの奈良盆地の古墳を一つ一つ検証していくべきだよ

奈良盆地には、3C中頃の全長が百余歩くらいの古墳がないのですよ。
奈良盆地の前方後円墳で一番古い「庄内1の石塚など」は、
筑紫の3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡の進化型になっているから、
3世紀末なんですよ。
313日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:43:02.87
高天原の天津神が国津神を下して筑紫に天孫族の政権が誕生したというのが出雲国譲りから天孫降臨までの記紀のストーリー。
後期渡来系の海洋民族が、先住渡来系の農耕民族を支配下に置いたということだ。
先住と言っても、水稲を行なっているから弥生人であり、江南など南方の農耕民族である。
つまりは南方の海洋民族と農耕民族が、時差を持って筑紫に上陸したのだ。
考古学的にも、博多湾沿岸には多くの文化が流入し、複数の氏族が同居していて、ここからさらに西日本や東日本に播種していったことがわかる。
その主役が、海運を担った博多湾沿岸の海人族だった。
彼らの所在地の一つが高天原であり、原が九州では集落を意味する語であることを考慮すると、高天原は海人(あま)の都という意味になる。
長年にわたり国家的規模の祭祀が行われた沖ノ島は高天原の候補となるだろう。
高天原から筑紫に降臨する天孫を守護したのが宗像だったのも、高天原を沖ノ島、降臨した筑紫の日向を福岡市西部と考えると地理的な整合性も高い。
高天原から筑紫に降臨した天孫族は、代々にわたり志賀島の海神と婚姻関係を深めていく。
高天原は綿津見の竜宮城とも意味が通じている(同じものだというわけではない)。
おそらく、博多湾沿岸には何波にもわたり渡来人が入植したのだろう。
海人による倭国の建国こそ、玄界灘沿岸を起源とする弥生文化成立の本質であり、記紀伝承の主眼である。
314日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:44:07.89
>>312
>>284
>>畿内説は箸墓教から脱却すべきだよ
>卑弥呼と台与は存在を抹殺されて記紀なんかには記載されていない人物だと
>思った方がイイ

>賛成です。

同意。
畿内ローカルの歴史書に記載されていないなら、九州の倭王であった可能性が高いだろう。
315日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:44:57.99
>>285
特定の誰かに話しかけられないコミュ障大和説は、
自宅に篭って静かに膝抱えてなさい
「南→東」や「正北抵新羅」などの嘘つき騙しのために、
会話のできないあなたのいう言葉は
他人に理解できないから書いても無駄
316日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:48:49.68
>>289
>しょぼく小さな墓を作って「大作冢」と言ったら
ウソつきだよね

「大作冢」は、「大きい冢を造った」という意味ではなく、
「大いに冢を作った」という意味だから、
この大和説男は、ウソツキだね。
317日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:52:03.55
>>292
>どの墓を基準に大きく造ったと思ったんだろうね

「大作冢」は、
「大きい冢を造った」という意味ではなく、
「大いに冢を作った」という意味だから、
この「どの墓を基準に大きく造ったと思った」と言った大和説男は、ウソツキだね。
318日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:56:34.08
>>296
>呉が作った、中を車が通れるような墓

「大作冢」は、
「大きい冢を造った」という意味ではなく、
「大いに冢を作った」という意味だから、
この「中を車が通れるような墓」と言った大和説男は、ウソツキだね。
319日本@名無史さん
2020/04/01(水) 17:59:19.94
大きい塚を作った、ならば作大塚になるわけか。
320日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:01:13.15
>「大いに冢を作った」

大勢の人が駆け付けて、盛大に作り上げた・・、というような意味だろ。
どのみち、平原のようなチンケなのではないわな。
321日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:02:11.26
>>297
>>墳は自然山稜じゃないから

>卑弥呼の墓は、径百余歩の自然山稜を墳と見做して利用し、その上のどこかに冢をこしらえたのだろう。
大作冢の記事には、それが一番ふさわしい解釈だ。

卑弥呼や孔明ではないし、時代も違うし、
孔明は「径百余歩の自然山稜を墳と見做して」なんて書いていないから、
この大和説男は、ウソツキ騙しの詐欺師であった。
この大和説男には、それが一番ふさわしい解釈だ。
322日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:08:14.59
>>313


で、江南など南方の農耕民族と南方の海洋民族が築紫に渡来定着した事を
証明する証拠遺跡と、その生活痕たる衣食住に関わる中国系生活文物と
中国系住居である

三足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器の鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃の中国系耕作用農具と

中粒種の中国系イネと

土壁の中国系住居と

漢服と

龍信仰と

亀卜と、

渡来時に伝わった中国系言語の単語は?


で、江南など南方の農耕民族と南方の海洋民族が筑紫に渡来定着したと
提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?


華南半ブタ半ニグロの醜悪極まりない汚物顔面のサギーチンクのおまえ
323日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:12:11.18
>>300
>倭人在→倭人が居る
東の倭種の国も含むんだから何の疑問も無いが?

魏の役人や陳寿は、卑弥呼共立に賛成した九州島付近の29国(女王国≒倭國)と、
その女王国から「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」や、
更に四国足摺付近の「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」とを、
明らかに書き分けており、
「東の倭種の国も含む」という事が嘘つき騙しであり、
この男は、×。
324日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:23:58.89
>>310
九州は高良玉垂命だろ
325日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:25:16.23
>>324

時代と地域が違う。
326日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:27:10.82
>>321
おぬしは、『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という諸葛亮伝の記事を読んで、
高齢者にも小学生にもわかる日常的文章に書き直せないのか。
悲しき九州男子だ。
327日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:30:13.78
>>302
>九州説はいつも倭人伝無視だね

「南→東」や「正北抵新羅」などの曲解や否定の大和説は、
いつも、文献考古の史料事実や史料実態の無視のインチキだね
328日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:32:41.51
>>306
>倭国伝に出てくる七万余戸邪馬台国は大和、五万余戸投馬国は出雲だと思う。
倭国大乱のあと邪馬台国の卑弥呼を女王とすることで国がまとまったということは出雲が大和にトップの座を譲ったということ。
記紀に記述がある国譲りではないだろうか。

「南≠東や東北」や「正北抵新羅」などに拠って、×。
329日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:44:08.82
>>325
そもそも国譲りを考えたタカミムスビが高良玉垂命に負けているわけだが。
330日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:46:49.37
>>328
九州北部に到着してブラブラして不彌国まで行った後に、さらに水行二十日、
水行十日、陸行一月も九州北部をブラブラ、ブラブラ、ブラブラ、ブラブラしたあげく
邪馬台国に行く九州北部説はもっと×だろ
331日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:47:37.07
>>1さん 教えてください
南を東とする現存する著名な学者と根拠です


1、南という字は東の間違いである・・・・・・・・・
2、東を南と方位を間違った ・・・・・・・・・・・・・・

よろしく、ググってみましたが、出てきません 
ダロウ カモシレナイ は出てきますが・・・
332日本@名無史さん
2020/04/01(水) 18:57:31.46
>>1さん 教えてください

寺澤薫氏が箸墓は卑弥呼の墓で無いと言ってますね

あなたの見解と寺澤氏の見解の相違を解説してくれませんか
333日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:11:34.98
>>331
畿内説の学者は全員だろ
根拠はそれぞれ畿内説を唱えた理由だ
334日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:16:24.96
>>330
日数は帯方郡からの日程
335日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:19:31.46
>>329
国譲りの高御産巣日と、高良の高木の神が同じではないのだろう。
336日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:20:14.36
>>330
>九州北部に到着してブラブラして不彌国まで行った後に、さらに水行二十日、
水行十日、陸行一月も九州北部をブラブラ、ブラブラ、ブラブラ、ブラブラしたあげく
邪馬台国に行く九州北部説はもっと×だろ

「水行二十日」は、不彌國から投馬國への側副傍線行程での所要日数。
「水行十日陸行一月」は、
その前の(行程の目的地である)女王之所都の数量説明文言であるから、
郡から女王之所都への所要日数であり、
この大和説男らは、倭人伝の解釈を間違えており、×。
337日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:26:32.98
>>287
憶測は抜きにして
倭人伝で記述される行程や物証の多寡じゃないかな
338日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:27:47.23
>>333
>畿内説の学者は全員

合計3人ぐらいか
339日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:31:19.94
>>312
私も同意
なぜ、突如に巻向を取り上げたかようわからん
古墳造営基地でいんでねーの
3世紀に巻向近辺に人がいたのは認めるけど
全国3世紀に人がいたんだから
340日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:34:58.21
>>282
>つまり道里は間違っているので行程では比定できない


いや、比定できるよ。   @阿波
341日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:36:35.41
>>333
畿内説互助会の学者だろ
ほとんど、関西の私立大出のやつだろ
それも、有名大学の教授になって無いじゃん
342日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:39:11.53
阿波説って畿内説の負け犬が九州説を攻撃する為に偽装して阿波を名乗ってると聞いたんだが
阿波説って内心畿内説だろ
343日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:40:50.31
>>341
畿内説の学者がそれしかいないと
本気で思ってるの?
あたま大丈夫?
344日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:42:06.94
石野博信・・・・徳島文理大学文学部教授
・・・偏差値 40
345日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:45:07.81
>>337
>憶測は抜きにして
>倭人伝で記述される行程や物証の多寡じゃないかな


それがまた憶測だという皮肉

要するに九州説は具体的な説明が全くできないってことだ
出来ればするだろうからね
346日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:45:29.43
>>342
>阿波説って畿内説の負け犬が九州説を攻撃する為に偽装して阿波を名乗ってると聞いたんだが

わははははは  そんなアホな!  畿内の歴史は、8世紀の大和遷都以降からだよ。   @阿波
347日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:48:48.23
>>344
反論ができず中傷専門の九州説
具体的な説明ができない九州説
証拠の出せない九州説

書き込めば書き込むほど
「九州説は敗退した」って
みごと帰納的に証明してないか?
348誰か教えて
2020/04/01(水) 19:50:15.87
ヨコからごめん

気になっているのだが、巻向の桃の種と建物群の話だが

建物群の柵と桃の種が出土した位置が重複してるのは何故????

柵が先か、桃が先か???
349日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:52:11.69
テンプレで明確なんだがな
> 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。<
350日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:53:50.68
>>347
あのーーー事実を投稿しただけなんですけど
間違ってるかな??????
351日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:54:56.20
>>348
普通に考えてモモが先
352C級キウス鑑定士
2020/04/01(水) 19:55:42.73
331 332 339 341 344 348 350
353日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:56:06.91
>>349
雰囲気的に桜井市纒向以外だなw
354日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:58:03.22
中国朱が検出された萩原墳墓群・天河別神社古墳群のある地域を支配していた有力者は、

当時、魏と交流していたことが窺える。

その、魏の水銀朱が使われた萩原古墳群から出土の画文帯神獣鏡

同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群から出土の斜縁二神二獣鏡

魏から下賜された鏡は、この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろう。   @阿波 
355日本@名無史さん
2020/04/01(水) 19:59:32.66
>>345
倭人伝で南だと記述してあるよ・・
倭人伝を否定するのもいいけどさーー
根拠や証拠を述べるべきじゃないか?

伊都国を起点とし2往復以上 魏の使いは行き来してるから
南を東に間違えないよ
356日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:01:49.49
>>351
俺もそう思う
357日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:03:07.08
>>336
不自然すぎる

それだと投馬国を出す必要が全くないじゃないか

何でそこで投馬国を出す必要があるの????
358日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:05:10.67
>>357
ただの修辞法だよ。
359日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:06:53.82
十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い。

また、三世紀などという時代には川にはロクに橋が架かっておらず、陸行一月できる場所は事実上物理的に存在しない。そのような長距離は必ず水行するのであり、これは本居宣長が畿内説を否定した根拠でもある。
つまり、陸行一月は誤り。

梁書の倭人条は魏志倭人伝をほぼパクって作ったものだが、これには陸行一月日とある。
つまりこの当時すでに陸行一月の資料と陸行一日の資料とが両方あったのだろう。

陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い
360日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:07:52.37
>>356
いつも理由なく「思う」九州説
だから世間から見捨てられた
361日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:08:02.27
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である饒速日の国
362日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:08:38.26
「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
「不自然ではない」
などのキナイコシが頻用する主観的な表現は、彼が根拠のないことを言い張る時に使うものだ。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説や個人的な主義主張を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。
363日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:08:57.01
>>340
阿波説の弱点はなに?
364日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:09:28.24
>>358
また根拠なし
これだから九州説は・・・
365日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:10:37.32
>>359
>また、三世紀などという時代には川にはロクに橋が架かっておらず、陸行一月できる場所は事実上物理的に存在しない。

いや、存在するよ。   @阿波
366日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:11:28.70
>>362
それが主観的だって証拠は?
根拠のないことを言い張る九州説の典型でました
367日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:15:29.31
>>358
はぁ??

そんな意味不明な修辞法ある訳ない

だいたい、そんな人に勘違いさせるような紛らわしい文章なんか書く訳がないじゃないの

頭がおかしい
368日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:22:43.92
>>359
>十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い。

だからさー
そうやって全く根拠を出さずに断定ばかりするから
九州説は消えたんだよ
369日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:25:12.64
我流読みの新発明で命脈を保って来た九州説も、20世紀いっぱいで死に絶えたよ
370日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:25:48.03
優れた者達が、努力したので、奈良での感染拡大は、防がれたのではないのかな。
371日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:27:04.53
>>345
>>憶測は抜きにして 倭人伝で記述される行程や物証の多寡じゃないかな

>それがまた憶測だという皮肉
要するに九州説は具体的な説明が全くできないってことだ 出来ればするだろうからね

それがまた、大和説者の憶測だ、という皮肉。
要するに大和説者は、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実や史料実態の指摘に対して、
具体的な説明が全くできなかったってことだ
出来ればするだろうからね
372日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:27:40.54
>>370
だが、邪馬台国畿内説は、頭の悪い者達には、感染してしまった可能性が高いな。
373日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:29:40.97
>>347
「南≠東」や「正北抵新羅」などの指摘に反論ができず、中傷専門の大和説
具体的な説明ができない大和説
証拠の出せない大和説

書き込めば書き込むほど
「大和説は敗退した」って
みごと帰納的に証明してないか?
374日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:29:57.51
朝鮮民族の奥山氏が、ウィルス兵器騒動とは無関係に、24時間体制で、邪馬台国畿内説を宣伝しているのではないのかな。
375日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:30:13.98
>>359
>つまり、陸行一月は誤り。<

南を東にするよりマシだが
陸行一月は阿波説が分かりやすいが
・・・・・阿波説は狗奴国をどことするのか??
376日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:32:10.28
>>360
君はどう思う
柵が先か桃が先か?
377日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:32:27.54
>>349
>テンプレで明確なんだがな
 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、×。
378俺も聞きたい
2020/04/01(水) 20:34:03.83
332日本@名無史さん2020/04/01(水) 18:57:31.46
>>1さん 教えてください

寺澤薫氏が箸墓は卑弥呼の墓で無いと言ってますね

あなたの見解と寺澤氏の見解の相違を解説してくれませんか
379日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:35:52.75
何で投馬国が出てくるのかサッパリ意味不明なお笑い読み九州北部説w
380日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:38:44.05
>>375
>・・・・・阿波説は狗奴国をどことするのか??


それはね、

北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は、粟国(旧吉野川流域北岸勢力・旧吉野川流域南岸勢力・鮎喰川下流域勢力)で、

南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は、長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力・海部川流域勢力)だよ。

その狗奴国も、邪馬台国に勝るとも劣らない強大国だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。   @阿波
381日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:39:52.75
>>333
もちろん
畿内説では南は東とするのは知ってます
私が質問してるのは

「南を東とする現存する著名な学者と根拠」

です
382日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:44:14.63
>>357
>>「水行二十日」は、不彌國から投馬國への側副傍線行程での所要日数。
「水行十日陸行一月」は、
その前の(行程の目的地である)女王之所都の数量説明文言であるから、
郡から女王之所都への所要日数であり、
この大和説男らは、倭人伝の解釈を間違えており、×。

>不自然すぎる  それだと投馬国を出す必要が全くないじゃないか
何でそこで投馬国を出す必要があるの????

卑弥呼共立の女王国の中では、
邪馬壹國に次いで2番目の戸数の多い重要な大国であったからであり、
不彌國から「水行二十日」で行ける側副傍線國ではあったが、
魏の役人たちが倭人から聴取し、陳寿も敢えて記録した。
383日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:47:12.82
>>332
寺澤も少しまともかな
384日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:49:49.69
徳島新聞2015年10月4日

「4世紀後半〜5世紀(古墳時代)の前方後方墳とされていた海陽町野江の寺山3号墳が

3世紀初頭(弥生時代終末期)の墳丘墓とみられることが、県埋蔵文化財センターの菅原康夫専務理事の調査で分かった。

邪馬台国の時代に、県南部に大きな墓を築ける勢力があったとみられる。」



兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は「邪馬台国の時代に、墳丘墓を造れるだけの勢力が徳島県南部にあったとは驚きだ。

近畿と四国を結ぶ海路の拠点としての役割を担っていたのかもしれない。」と話している。

県立埋蔵文化財センターの開館20周年を記念して発行した研究紀要「真朱」第11号で、研究の成果をまとめた論文を発表した。

鳴門の萩原墳丘墓との比較の結果、規模は小さいものの、萩原墳丘墓と同じ円墳で「内行花文鏡」も同じく出土している。

県南の海陽町(旧海部郡海部町)は海人族の本拠地でもある。   @阿波 
385日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:49:59.37
>>359
>十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い。

陳寿は、別に「駢儷文」を強く意識していないから、×。
陳寿は、原則として、魏使らの記録を少し近似や簡略化をして転写しているだけ。
386日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:52:36.13
>>360
いつも理由なく「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」を、
「思う」だけの大和説
だから世間から見捨てられた
387日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:54:33.59
なぜ有名なんだと思う?
某どこそこは、ニセモノの「?」を祀っている〜何やらとか。
388日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:57:20.95
>>380
そこに遺跡が余りないのですが???
今後の調査かな
余りにも、大和説に税金つぎ込みすぎですね
389日本@名無史さん
2020/04/01(水) 20:59:00.29
このような話もしているし。

『日本昔話 石楠花』

かみたま(不明)なども、何の系統の話なんだろう、
いまでいうと「きち□い」なのかな?

老婆談があるでしょ。
390日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:00:22.26
>>386
>いつも理由なく「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」を、
>「思う」だけの大和説

ウソつき
説明されても聞こえないフリで反論もしない
黙って何も無かったことにする
しかも「正北抵新羅の隠蔽」なんて
誰が見てもわかるウソまで連呼する

九州説は卑怯すぎるね
391日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:01:19.34
議論についていけない奥山は哀れだなwW
392日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:01:49.75
>>383
理由の言えない九州説
だから学問でいられない
393日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:02:20.45
徳島県の北部が邪馬台国「粟国」で、南部が狗奴国「長国」となる。

祭神の「大己貴命」は狗奴国「長国」の祖神である。

「大国主命」には多くの別名があって、「大己貴命」も「八桙神」その別名。

この「八桙神」の名が付いた「八桙神社」は、全国の式内社神名帳のなかで、阿波國阿南市長生町の一社のみしか存在しない。

まさに「大国主命」は、「阿波国」が出身地だったのある。   @阿波
394日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:04:33.03
>>366
>それが主観的だって証拠は?

スレ主のテンプレは、「南≠東」や「正北抵新羅」などの、
史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論をしていないから。
根拠のないことを言い張る大和説者の典型が、でました
395日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:05:02.67
>>388
>そこに遺跡が余りないのですが???

それは、君が勉強不足だからだよ。  もっと勉強しましょう!  @阿波
396日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:05:15.89
『ドンバ』
(『ドンバ 仙人』?)のような気もするし。
397日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:07:43.68
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】

徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。

一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。

この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://awanonoraneko.hatenadiary.com/entry/47852915
398日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:09:39.78
>>379
投馬国と邪馬台国は兄弟国なんですよ。
399日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:12:40.31
>>398
兄弟国?  まぁ、おなじ四国ではあるがね。   @阿波
400日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:13:00.21
大和弥生社会の展開とその特質
寺澤薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)

もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。

http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
401日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:18:35.03
>>381
>畿内説では南は東とするのは知ってます
>私が質問してるのは
>「南を東とする現存する著名な学者と根拠」
>です

だから著名でも著名でなくても畿内説は全員そうだって、なんで理解できないの?
異常に知能が低い?
402日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:20:34.57
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
403日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:20:59.28
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.
404日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:31:02.80
>>398
ほら、また九州説はどんな史料にも書いてないことを妄想するだけ
405日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:32:09.43
>>368
だからさー
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などのような、
史料事実や史料実態の否定曲解の嘘吐き騙しを、
そうやって全く根拠を出さずに断定ばかりするから
大和説は消えたんだよ
406日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:34:34.92
>>269
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などのような史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しのような、
我流読みの新発明で命脈を保って来た大和説も、
20世紀いっぱいで死に絶えたよ
407日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:34:46.47
>>403
中国からは・・・もう少し、後の時代になってからという話?
408日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:39:01.61
>>394
>スレ主のテンプレは、「南≠東」や「正北抵新羅」などの、
>史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論をしていないから。

学問的に一顧だにされてないおかしな素人の我流解釈を認めてやらないと、なんか問題でも?
409日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:40:37.55
>>379
何で「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」や、
「投馬国説明が分からないのか」などが、
サッパリ意味不明でお笑い読みでの大和説
410日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:41:51.29
>>405-406
平気でこんなウソ書くのも
九州説が亡んだ理由の一つな
411日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:48:18.41
>>390
>>いつも理由なく「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」を、「思う」だけの大和説

>ウソつき 説明されても聞こえないフリで反論もしない 黙って何も無かったことにする
しかも「正北抵新羅の隠蔽」なんて誰が見てもわかるウソまで連呼する

じゃ何故、その「説明」とやらを、ここに書き出さないの?。
大和説は卑怯すぎるね
412日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:50:35.88
>>392
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
理由の言えない大和説
だから学問でいられない
413日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:55:15.25
>>404
ほら、また大和説は
「南→東」や「正北抵新羅の抹殺」などのように、
どんな史料にも書いてないことを妄想するだけ
414日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:57:58.88
>>407
縄文弥生を通して、日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる衣食住に
関わる中国系の生活土器や中国系の服飾や織機や中国系の住居跡のある中国系の
生活痕遺構が一切ないのよ

中国大陸人が初めて渡来定着したのは古墳期の呉織、漢織だろうね

次に裴世清だろう
415日本@名無史さん
2020/04/01(水) 21:58:50.78
>>408
>>スレ主のテンプレは、「南≠東」や「正北抵新羅」などの、
史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論をしていないから。

>学問的に一顧だにされてないおかしな素人の我流解釈を認めてやらないと、なんか問題でも?

それ、史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論になっていないよ。
416日本@名無史さん
2020/04/01(水) 22:01:02.58
>>410
「南→東」た「正北抵新羅の隠蔽」などのように、
平気でこんなウソ書くのも
大和説が亡んだ理由の一つな
417日本@名無史さん
2020/04/01(水) 22:01:24.71
>>372
頭の良い者達には、絶対に、感染しない邪馬台国畿内説も、頭の悪い者達には、簡単に、感染してしまうのだったね。
418日本@名無史さん
2020/04/01(水) 22:04:22.85
>>376・378・381・383・388
もキ印だな
419日本@名無史さん
2020/04/01(水) 22:13:05.93
>>360
じゃあ畿内説のバカは柵をつくった跡に穴を掘ったと言うんだなw
420日本@名無史さん
2020/04/01(水) 22:28:06.45
畿内説板は畿内説を否定する板ではない。
畿内説を肯定する板。
421日本@名無史さん
2020/04/01(水) 22:30:15.00
>>398
だったら、至ると書かないだろ

ただ投馬国在りと書くはずだろ

至るというのは行ったという意味に他ならない
422日本@名無史さん
2020/04/01(水) 22:31:00.39
畿内説「板」なんてどこにあるんだ?
423日本@名無史さん
2020/04/01(水) 22:38:10.02
×投馬国在りと書くはずだろ
○有投馬国と書くはずだろ

失礼
424日本@名無史さん
2020/04/01(水) 22:52:57.62
九州北部説の旅程は全く破たんしとるよ

むしろ九州北部フルコース2ヶ月間ブラブラ旅にしといた方がイイくらい
425日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:10:22.41
>>422
知らないなら来るな
426日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:10:38.94
>>421
>至るというのは行ったという意味に他ならない

それは読解法の仮説として知っているが、陳寿が本当にそう考えて書いていたかはわからない。
投馬国までの里程が書いていないことを重視すれば、投馬国へは行っていないと考えるべき。
427日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:14:33.36
>>419
>じゃあ畿内説のバカは柵をつくった跡に穴を掘ったと言うんだなw

九州説は正しい情報源を全く見ないと自白した
428日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:17:07.25
>>382
>邪馬壹國に次いで2番目の戸数の多い重要な大国であったからであり、
>不彌國から「水行二十日」で行ける側副傍線國ではあったが、
>魏の役人たちが倭人から聴取し、陳寿も敢えて記録した。

投馬国が邪馬台国に次ぐ大国だというのは正しいだろうが、水行20日も郡からの日程だろう。
郡から福岡まで10日なのに、福岡からさらに20日ではそれこそ沖縄になってしまう。
福岡から長崎・鹿児島まわりで宮崎だろう。
429日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:17:22.13
>>426
そんな変なことを考える「べき」だって
理由は?
430日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:18:30.56
>>429
その直前に理由が書いてあるのに、相変わらず読み取れないんだな。
国語の点数が悪かっただろw
431日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:19:33.74
>>428
前提になる「郡から福岡まで10日」がデタラメなので聴くに値しない珍説だな
432日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:20:32.34
>>430
理由って、どれ?
答えられないなら
書いてあると言うのがウソ
433日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:26:46.75
>>430
罵るだけで反論できないのは論破された証拠だな
434日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:29:56.07
行ってないなら、至投馬国 じゃなくて 有投馬国 だわな
435日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:37:51.69
九州北部説の旅程って志村けんより笑えるかもwwww
436日本@名無史さん
2020/04/01(水) 23:45:25.66
畿内教信者もさすがに心が揺らぎ支離滅裂な言い訳を始めたなw
437日本@名無史さん
2020/04/02(木) 00:00:42.85
>>434
そう考える理由は?
まら勝手ルール?
438日本@名無史さん
2020/04/02(木) 00:03:46.95
>>437
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 
次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 
次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 
次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 
次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
439日本@名無史さん
2020/04/02(木) 00:04:43.12
結局聞かれたことには全く答えられないのが
負け犬九州説なのであった
440日本@名無史さん
2020/04/02(木) 00:08:40.17
>>437
陳寿に「有」と「在」にの使い分けがあるというのは
倭人伝研究で昔から知られてる基礎知識なんだが
こんなことも九州説は知らんのか
無学素人はどうしょもないな
441日本@名無史さん
2020/04/02(木) 00:12:49.08
それに九州北部説はこれらの女王国以北の国々がどこだと言うの?

狭い九州北部から遠絶して詳しくは分からない女王国以北の国ってどこよ?wwww


自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 
次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 
次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 
次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 
次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
442日本@名無史さん
2020/04/02(木) 00:19:25.43
>>441
お前魏志倭人伝読んだことないやろw
あたま悪いんちゃう?
443日本@名無史さん
2020/04/02(木) 00:24:07.25
畿内説は井の中の蛙なので北部九州が狭いと思っているらしいw

可住地面積
(人が住むことの出来る土地)
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)

ちなみに可住地面積の広さで見ると、奈良県は47都道府県中47位だw
444日本@名無史さん
2020/04/02(木) 00:28:47.63
>>443
>ちなみに可住地面積の広さで見ると、奈良県は47都道府県中47位だw

夜中に吹いちまったw
445日本@名無史さん
2020/04/02(木) 00:29:08.16
>>441
バカ発見
446日本@名無史さん
2020/04/02(木) 00:36:31.34
現代の可住地面積なら平城京の奈良も平安京の京都も狭い
東日本が広い

北海道  22193km2
新潟県  4505km2
福島県  4231km2
茨城県  3981km2
岩手県  3697km2
千葉県  3532km2
長野県  3309km2
鹿児島県 3271km2
青森県  3231km2
秋田県  3188km2

京都府  1176km2
奈良県  853km2
447日本@名無史さん
2020/04/02(木) 01:41:26.33
それにしても、老婆談なんだよな、すとーかーがいるのかな?

50年〜60年くらい前の話?、
どこかの新聞社()の話、写真を撮らせてくださいと家に来たことがあったと言っていたり。

家の誰だったかな、親戚(女の親戚)の写真を撮影したいとか。
448日本@名無史さん
2020/04/02(木) 01:47:37.08
家は芸能人とか・・・そういう家でもないし。
新聞(どこの新聞だったんだろう)にも載ったと言っていたり、すとーかー?
449日本@名無史さん
2020/04/02(木) 03:09:25.13
まさか、老婆(自身)自体が、すとーかー・・・?だったとか、
そういうわけでもないだろうし。

老婆の家wの親戚、知り合いがストーカーだったのかな、
たしか創価だと言っていた事があったしな・・・。
450日本@名無史さん
2020/04/02(木) 05:30:36.23
>>421
>だったら、至ると書かないだろ ただ投馬国在りと書くはずだろ
至るというのは行ったという意味に他ならない

「至」は「行った」と言う過去形だけではない。
「向かえば行く」というその時点での実態説明などにも使われる。
これは、古田第1書でなど分析されていた事。
また、「行った」という過去形を強調する場合には、
「到=至り立つ」という文字も、使い分けられている。
451日本@名無史さん
2020/04/02(木) 05:35:58.31
>>424
>九州北部説の旅程は全く破たんしとるよ
むしろ九州北部フルコース2ヶ月間ブラブラ旅にしといた方がイイくらい

破綻していない。
不彌國や邪馬壹國女王之所都付近で、萬二千余里がほぼ終了する、
という記載になっている。
また、奴國や投馬國は、「至の前に途中移動を示す文言がない」から、
側副傍線國としての説明である事がはっきり書き分けられている。
452日本@名無史さん
2020/04/02(木) 05:37:15.57
>>450
素人分析で藁
453日本@名無史さん
2020/04/02(木) 05:42:44.53
>>435
>九州北部説の旅程って志村けんより笑えるかもwwww

大和説者の「南→東」などの人類の常識外れの旅程解釈って、
志村けんのお笑いよりも笑える。
454日本@名無史さん
2020/04/02(木) 05:47:12.35
>>439
結局聞かれたことには全く答えられず、
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの史料事実や史料実態の否定曲解などの、
嘘吐き騙しがバレたのが
負け犬大和説なのであった
455日本@名無史さん
2020/04/02(木) 06:01:26.68
>>440
>陳寿に「有」と「在」にの使い分けがあるというのは
倭人伝研究で昔から知られてる基礎知識なんだが

原則は、「有」は、単なる有無区別での「有り」という事であり、
「在」は、「在す」というように、なんらかの(特定の場所に)存在する、という意味。

こんなことも大和説は知らんのか
無学素人はどうしょもないな
456日本@名無史さん
2020/04/02(木) 06:10:54.34
>>441
>それに九州北部説はこれらの女王国以北の国々がどこだと言うの?
狭い九州北部から遠絶して詳しくは分からない女王国以北の国ってどこよ?wwww

「女王國以北」は、原則として、
(ほぼ九州島付近の)女王國を含んで、それより北方になる国々。
だから、南九州の投馬國も含まれる。
457日本@名無史さん
2020/04/02(木) 06:14:18.68
>>451
>不彌國や邪馬壹國女王之所都付近で、萬二千余里がほぼ終了する、

だからそれだと「会稽東治之東」に絶対なれないので
九州説死亡
これは確定事項です
458日本@名無史さん
2020/04/02(木) 06:23:22.71
>>427
嘆くなよ 説明しろよ
459日本@名無史さん
2020/04/02(木) 06:30:49.31
>>457
沖縄説を支持いただきありがとうwW
460日本@名無史さん
2020/04/02(木) 06:35:51.54
【福岡】邪馬台国九州説に新たな視点 「近畿は絶対的な王権で後のヤマト、隣接したクニとも調和を保った北部九州こそ邪馬台国」
http://2chb.net/r/newsplus/1585774758/
461日本@名無史さん
2020/04/02(木) 06:56:21.36
柵と桃の種 どちらが先か

邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
462日本@名無史さん
2020/04/02(木) 07:32:28.59
>>455
>原則は、「有」は、単なる有無区別での「有り」という事であり、
>「在」は、「在す」というように、なんらかの(特定の場所に)存在する、という意味。

それ、誰がどんな理由で決めたの?
田舎の素人おじいさんが老人の直感で?
463日本@名無史さん
2020/04/02(木) 07:40:30.36
もう勝負ついてるね
最近の記事なども九州説ばかりでむしろ九州邪馬台国と畿内ヤマト政権を切り離すかどうかに焦点が移ってる
だがそうなると庄内式が逆に足かせになってくるという悲劇
464日本@名無史さん
2020/04/02(木) 07:52:27.68
>>463
>だがそうなると庄内式が逆に足かせになってくるという悲劇

庄内式が足かせ?  「水銀朱」や「勾玉」もね。  わははははは   @阿波
465日本@名無史さん
2020/04/02(木) 08:05:36.62
>>457
>>不彌國や邪馬壹國女王之所都付近で、萬二千余里がほぼ終了する、

>だからそれだと「会稽東治之東」に絶対なれないので
九州説死亡
これは確定事項です

この男(東大理系博士号男?)がまだ変な事を言っている。
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」は、女王国の位置推定であって、
不彌國や邪馬壹國女王之所都の位置推定をしているのではない。
そして、女王国は、(南九州の投馬國を含めて)「ほぼ九州島付近」であり、
「會稽東治之東」の推定で、何の問題もない。

東大理系博士号?男の、死亡確定。
466日本@名無史さん
2020/04/02(木) 08:15:29.20
>>463
>もう勝負ついてるね
最近の記事なども九州説ばかりでむしろ九州邪馬台国と畿内ヤマト政権を切り離すかどうかに焦点が移ってる
だがそうなると庄内式が逆に足かせになってくるという悲劇<

庄内式もダメだよ。
筑紫の庄内は、3世紀前半からであり、卑弥呼の墓の祇園山からも出ている。
大和は、大和としての前方後円墳の初期の3世紀末の石塚の庄内1から。
つまり、大和は、
3世紀後半頃に九州倭國の「東征毛人五十五國」に征服された旧小国の一つであり、
庄内1も、その後で、筑紫から伝わった。
467日本@名無史さん
2020/04/02(木) 08:16:16.37
>>465
ウソついてもダメじゃん
投馬国までの道里が書いてないんなら計ることは出来ない
だから「會稽東治之東」だという推定は出来ない
投馬国までの道里が書いてあるなら女王国以北になるから
もちろん「會稽東治之東」にならない

九州説死んでます
468日本@名無史さん
2020/04/02(木) 08:18:21.65
>>466
>筑紫の庄内は、3世紀前半からであり、卑弥呼の墓の祇園山からも出ている。

庄内式が祇園山から出ているという情報は存在しないね
九州説がまたもや捏造したガセネタだろう
469日本@名無史さん
2020/04/02(木) 08:24:08.73
そろそろ、畿内説5ch宣伝係の解雇が、決定するのでは、ないかな。。。
470日本@名無史さん
2020/04/02(木) 08:59:12.85
九州北部説はこれらの女王国以北の国々がどこだと言うの?

九州北部から遠絶して詳しくは分からない女王国以北の国ってどこよ?wwww


自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 
次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 
次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 
次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 
次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
471日本@名無史さん
2020/04/02(木) 09:08:32.68
>>455
>原則は、「有」は、単なる有無区別での「有り」という事であり、
>「在」は、「在す」というように、なんらかの(特定の場所に)存在する、という意味。

有り・・・国が有る、郡衙がある、兵が任務に就いている、などなどhとびとの組織がある場合に「有」を用いている。
又、その山丹有り、有棺無槨、のように物や人の有り無しにも用いている。

在り・・・倭人在り帯方東南、当在会稽東治の東、のようにある程度の広さに分布して存在している、の意味に用いられている。
つまり、当在会稽東治の東は、特定の国の有りなしでなく、「倭人」は会稽東治の東の方角に分布しているの意味である。 畿内説即死!
472日本@名無史さん
2020/04/02(木) 09:10:22.53
庄内式の発祥は九州で、しかも肥後熊本地方
473日本@名無史さん
2020/04/02(木) 09:25:21.96
纏向の建物建造時期は4世紀以降だなw

>756 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2020/04/01(水) 22:29:44.82 ID:1UJN0rog0
>纏向遺跡の桃の種の発見場所からすると、建物と桃の種は時代が一致せず無関係

>桃の種が埋まっていたのは柵の下
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
474日本@名無史さん
2020/04/02(木) 09:33:25.21
>>470
随分と変な質問だな
何て書いてあるか読めないのか?

女王国以北は情報を得た→行程に出てくる国々

そして国名だけ紹介されているのが以北以外の国々
475日本@名無史さん
2020/04/02(木) 09:55:35.35
筑後筑豊は狗奴国、おそらく筑紫君磐井の支配地域。
南九州は隼人。
476日本@名無史さん
2020/04/02(木) 10:06:19.84
「倭人在帶方東南」 帯方の東南は本州です。九州には蛮夷が住んでいた。
477日本@名無史さん
2020/04/02(木) 10:19:01.56
>>476
倭人が住んでいる地域が帯方郡の東南にあった=南の邪馬台国+東の倭種の国

糸冬
478日本@名無史さん
2020/04/02(木) 11:03:40.41
>>473
もちろんこれもガセネタ
九州説はもうニセ情報で命を繋ぎ止める気なのかね

それ、逆に致命傷になるのに
479日本@名無史さん
2020/04/02(木) 11:07:21.06
>>471
田舎の素人おじいさんの漢文珍解釈で
畿内説が死ぬ可能性は
皆無
480日本@名無史さん
2020/04/02(木) 11:27:42.95
>>478
それ有料ニュースの記事だろ?
奥山は金払ってないからニュース読めないんだなwww
481日本@名無史さん
2020/04/02(木) 11:39:14.43
>>467
>ウソついてもダメじゃん
投馬国までの道里が書いてないんなら計ることは出来ない

不彌國から「水行二十日」と水行日数が書かれており、
陳寿ら中国人は、当然「静止水での水行が1日平均450里(短里)位である」、
という事を知っており、
水行二十日では、688.5km位になり、不彌國から海岸沿いの東回りでも西回りでも、
ほぼ鹿児島湾内に入ってしまう日数になる。

>だから「會稽東治之東」だという推定は出来ない
投馬国までの道里が書いてあるなら女王国以北になるから
もちろん「會稽東治之東」にならない

投馬國の位置は佐多岬を越えるから、
女王国は「 會稽東治之東」と推定出来る事になる。

大和説も、類スレ主も死んでます
482日本@名無史さん
2020/04/02(木) 11:44:06.25
>>470
>九州北部説はこれらの女王国以北の国々がどこだと言うの?
九州北部から遠絶して詳しくは分からない女王国以北の国ってどこよ?wwww・・・

女王国は(投馬國も含むので)「ほぼ九州島付近」全域であり、
だから「女王國以北」は「ほぼ九州島付近全域以北」であることになから、
その地域に21国も存在していた、という事になる。
483日本@名無史さん
2020/04/02(木) 11:45:17.77
>>481
>不彌國から「水行二十日」と水行日数が書かれており、

それが道里じゃないんなら陳寿は計算に入れてない
だから会稽東治之東にするのは不可能
なので九州説は死亡

それが道里なら投馬国は女王国以北
なので九州説死亡
484日本@名無史さん
2020/04/02(木) 11:45:36.83
死に体となってしまった奥山氏は、24時間以内に火葬されてしまうのでは、ないかな。。。
485日本@名無史さん
2020/04/02(木) 11:55:44.36
>>476
>「倭人在帶方東南」 帯方の東南は本州です。九州には蛮夷が住んでいた。

「倭人在帶方東南」 帯方の東南はほぼ関門海峡付近です。
「正北抵新羅」に拠って、北部九州には倭人がおり、
大和には、当初は毛人や出雲系銅鐸祭祀部族や神武らの阿毎氏の別種がいたが、
九州倭國の「東征毛人五十五國」に拠って征服され、
九州倭國の別種の旧小国の附庸國になった。
486日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:03:27.15
>>421
>至るというのは行ったという意味に他ならない

ほらまた勝手ルールだ。
487日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:15:46.13
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.
488日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:17:38.55
>>472
駄々をこねても、無理!  わははははは   @阿波
489日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:23:58.07
柵と桃の種 どちらが先か語れない奥山はバカ
490日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:27:58.44
>>489
柵をつくってから穴掘ったと
言いたそうだったけどなw
491日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:44:05.09
何年もかけて畿内説を宣伝し崩壊させてきた奥山氏あわれ
492日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:44:41.33
九州説はもう呪いの文句を吐くだけかな
493日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:45:48.54
いくら呪いの文句を吐いたって
邪馬台国は畿内という学問的事実は変わらないよ
494日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:47:44.85
>>489
柵をつくったせいで墓穴掘ったと・・
495日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:50:21.64
ピックルに手当てが出たのかな、今日は張り切ってカキコしてるようだが・・
496日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:53:14.15
橿原撤退、これで畿内説はチャンチャン、、、
497日本@名無史さん
2020/04/02(木) 12:54:27.90
考古学会入会資格

『入会資格は25歳以上、著書・論文・発掘報告書いずれか1篇以上、
あるいは資料紹介や分担執筆など3篇以上が条件で、査読論文までは求められないが、』

レベル低すぎるだろwww

『協会の審査委員会で著書等の審査をされ、その後現会員からの意見等を
受け付け問題がなければ入会出来る。』


要するに宗教w
このシステムが歴史捏造事件を引き起こさないはずがないw
引きこもり考古学オタクの巣窟www
498日本@名無史さん
2020/04/02(木) 13:04:06.51
>>480
こいつバカ?
ここの畿内説論者は記事の元になった論文も読んでるのに
有料の新聞記事読める自慢とはなwww
499日本@名無史さん
2020/04/02(木) 13:08:54.63
>>498
アホのキナイコシかw
桃の種発見時のニュース記事に記載されていた図だろw
各社似たような図で紹介してただろw
いったい何年引きこもりやってんだ?www
500日本@名無史さん
2020/04/02(木) 13:13:13.26
黒塚古墳の被葬者が誰か分からないという不思議

記紀に故意に載せられなかった人物
501日本@名無史さん
2020/04/02(木) 13:20:09.11
>>497
>協会の審査委員会で著書等の審査をされ

畿内説かどうかチェックを受けるわけだ

学歴不問+能力不問+畿内説で入会できる「学会」ってか
502日本@名無史さん
2020/04/02(木) 13:55:03.33
柳本=皇室
503日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:12:22.09
>>497

日本考古学協会

「会員は大学、博物館など公的教育機関の研究者と地方自治体の埋蔵文化財担当職員、
民間調査会社所属の研究員などによって占められ」

既に研究者として活動してる人が連携・協力するための団体なので
九州雑多作り話のようなジジイはいない
504日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:16:51.30
頭の悪い奥山は、5chでの畿内説宣伝活動の実績では、学会に入れてもらえない事を、知らないのでは、ないのかな。。。
505日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:21:19.49
>>504
奥山学会員だってよ
506日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:25:39.21
奥山はこっちだったよな

日本考古学会
[入会]邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
507日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:31:57.60
>>505
関西弁の学会だろ?
「そうだっか」学会という
508日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:32:39.25
>>499
>桃の種発見時のニュース記事に記載されていた図だろw
>各社似たような図で紹介してただろw

その元になってる図も誰でも知ってるし
頭のへんな九州説さんが妄想してるような報道はどこにも実在しないよ
509日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:38:00.64
>>508
とうとう頭おかしくなったのかw

いくらでも出てくるぞw
https://www.sankei.com/west/photos/180514/wst1805140063-p3.html
510日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:39:13.02
>>508
とうとう頭おかしくなったのかw

いくらでも出てくるぞw
https://mainichi.jp/articles/20180516/kei/00s/00s/002000c
511日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:50:36.30
>>509
また九州爺さん発狂してるのか

>纏向遺跡の桃の種の発見場所からすると、建物と桃の種は時代が一致せず無関係
>桃の種が埋まっていたのは柵の下

なんて狂った妄想だぜ
そんな報道どこにも実在しない
512日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:51:48.70
わざわざ奥山の持ってる図に追記してあげたから持っておきなさいw

邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
513日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:58:34.90
この桃の種を掘り出した穴は、奥山君の墓穴になりました。
514日本@名無史さん
2020/04/02(木) 15:59:40.50
文盲畿内説にちょっと読んであげようかw

『大型建物の年代は、センターが土器形式など考古学の手法で3世紀前半とみてきた一方で、
九州説を唱える専門家を中心に4世紀以降とみて、邪馬台国とは無関係との見方もあった。』

桃の種は建物より以前に掘られた穴に埋められており、その種の年代が3世紀だとすれば、
建物は4世紀以降と考えるのが妥当だよなw

建物を意識していない穴の位置であり、建物は穴があることすら知らない位置に建てられているwww
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
515日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:00:51.69
大型土坑は建物群廃絶時
516日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:04:17.76
>>514
もともと纏向編年がズレてるんじゃないの?
517日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:06:35.42
九州説を唱える専門家というのは心理学の専門家じゃないかな
現在老人向けのイベント業やってる
518日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:10:30.19
>>515
そうか、古墳完成の打ち上げかw
大勢のドカタが不要となった休憩所をぶっ壊して、
飲み食いして、穴掘って残飯を埋めたんだな

・近所に大型古墳
・大量の土木用具
・打ち上げパーティーの痕跡

これだけ条件が揃えばもう纏向は古墳造営基地局で確定だwww
519日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:11:16.62
>>514
それ、出典は?
520日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:12:20.59
>>519
この記事を知らない時点で君はお呼びじゃないな
畿内説失格
521日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:18:48.77
畿内説にダメ出し食らって残飯とともに、古代の穴に埋められてしまう奥山氏あわれ
522日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:27:47.43
>>520
あら、言えないんだ
デマかな
523日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:29:03.33
奥山がここまでアホとはw
ほんとに外国籍だろお前w
524日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:33:54.67
>>522
はあ?
邪馬台国説に一石を投じたとか、畿内説を補強した
などと騒いでた頃の記事だろ
初心者か?
525日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:50:36.41
藤村にもなれず人生をくだらない妄想に使い果たしてしまった奥山氏あわれ
526日本@名無史さん
2020/04/02(木) 16:57:17.78
罵倒しかできない九州説の惨敗が決定でしょ
情報の出所すら出せないんだから
527日本@名無史さん
2020/04/02(木) 17:06:04.38
奥山よ、受信料ぐらいちゃんと払えよw
528日本@名無史さん
2020/04/02(木) 17:20:19.76
>>479
「南」や「正北抵新羅」などの史料事実に対する大和説のアホ学者らの漢文珍解釈で
大和説が死ぬ可能性は
ほぼ100%
529日本@名無史さん
2020/04/02(木) 17:29:55.84
死に体となった奥山に代わって、大和王権の歴史について研究してあげよう

邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
530日本@名無史さん
2020/04/02(木) 17:46:44.99
>>514
新聞記事はこれだよな
https://www.asahi.com/articles/ASL5B22KKL5BPTFC001.html

桃の種が見つかった穴が建物より新しいなんてのは、おまえの作り話
穴から桃の種以外に何が出土したかも知らないで、でっち上げたデタラメ
531日本@名無史さん
2020/04/02(木) 17:57:08.42
おっと逆に書いてしまった

× 穴が建物より新しいなんてのは、おまえの作り話
〇 建物が穴より新しいなんてのは、おまえの作り話
532日本@名無史さん
2020/04/02(木) 17:59:07.63
桃の種も出ない九州に卑弥呼はいなかった
533日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:00:02.89
>>531
あってるぞw

物理的にはこうなる

○ 穴が建物より新しいなんてのは、おまえの作り話
× 建物が穴より新しいなんてのは、おまえの作り話
534日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:04:26.11
>>530
九州説が完全に粉砕されたという意味の書かれた記事だな
535日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:10:11.19
とうとう畿内説は、大型建物の垣根の下敷きになってしまいましたとさ、おしまい!
536日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:12:45.73
建物と桃の種の位置関係ワロタ
時系列上だと無関係となるわけだwww
537日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:14:03.46
九州説の方が賢いなwww
538日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:16:41.76
唐書には倭国には阿蘇ありって書かれているじゃん。
魏志でいうところの邪馬台国であるとも書かれている。
この記述を突き合わせると倭国(邪馬台国を中心とする小国連合)は
近畿ではありえない。
もし邪馬台国が近畿ならば琵琶湖のことが全く書かれていないのは不自然。
539日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:20:23.78
>>538
隋書には大和は邪馬台国の事と書いてあるよ
ちなみに隋と大和は遣隋使で使者が行き来している
540日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:20:29.59
>>538
狗奴国
541日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:22:17.25
>>539
ご都合解釈乙
542日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:26:46.86
>>539
>隋書には大和は邪馬台国の事と書いてあるよ

より詳しく言えば、
隋書にいう大和は、魏志に書かれている(東遷前の)邪馬台なる者の事なりと書いてあるよ
543日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:30:17.09
>>541
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也

倭国の都は邪靡堆(邪摩堆=大和)すなわち魏書でいう所の邪馬台である
隋書倭国伝
544日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:30:51.30
>>542
そんな事は書いてない
545日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:31:29.67
いくらこじつけても隋書の時代にはもう纏向は存在していない
546日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:32:40.40
魏志倭人伝で火山の事を書いてないのは邪馬台国は九州でないからだろう
琵琶湖くらいの湖は中国では驚くほどの事は無いけどあんな火山は珍しい
547日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:34:54.30
>>543
そこは、魏志倭人伝で書かれた邪馬台国に該当すると書いてあるんだよ
昔の邪馬台国そのものだったら改めて紹介する必要もない
名前が変わったなら古の邪馬台国也と記述される
548日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:47:10.28
>>536
>建物と桃の種の位置関係ワロタ
>時系列上だと無関係となるわけだwww

どの情報をどう読んだら、そんな妙な結論が出るのかな
まあ九州説支持者が知能が極度に低いのはわかってるから
どうせ筋道立てた説明なんかできないだろう

できることは「読めばわかるだろバーカバーカ」みたいに囃すだけだ
何せ頭悪いからな九州説は
説明ってことが出来ない
思いつきの脈絡ない結論が口から飛び出すが理由は言えない
これが毎度の九州説だ
549日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:48:18.61
>>547
発音が昔と微妙に変わってるから同じ土地のことだろ説明してるだけだよ
550日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:53:48.69
>>547
>昔の邪馬台国そのものだったら改めて紹介する必要もない
>名前が変わったなら古の邪馬台国也と記述される

まさにその通り書かれているではないか
隋から見れば、魏は古のことだ。
だから、名前が変わったから古の(魏志倭人伝に書かれている)邪馬台国也と記述されているわけだ。
551日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:54:36.77
>>547
大和国は邪馬台国と言ってる
それに隋とは遣隋使で使者が行き来をしている
552日本@名無史さん
2020/04/02(木) 18:57:27.72
>>536
>建物と桃の種の位置関係ワロタ
>時系列上だと無関係となるわけだwww

まったくそのとおりだ
畿内説も、朝日新聞も、時系列という概念が失われているようだな、大笑い、、、
553日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:04:16.00
>>543
>邪摩堆=大和

ここが嘘なんだろ。
これでは邪馬台=大和となんら変わらない。
音が似ているからその他の記事がことごとく矛盾しても同じもの?
畿内説ってアホだろ。
554日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:06:30.62
>>553
隋は遣隋使で日本と使者が行き来したと言っただろ
隋の頃の日本の都はどーこだ
555日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:06:49.42
>>546
>魏志倭人伝で火山の事を書いてないのは

狗奴国がまだ熊本で頑張っていて、統合できていなかったからだろう。
つまり卑弥呼の頃は邪馬台国=筑紫と肥前であり、
壹與の時代になって、邪馬台国=筑紫と肥国になったと考えられる。
556日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:07:53.83
>>554
>隋の頃の日本の都はどーこだ

大宰府
557日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:08:57.63
>>556
ハイ九州説は日本の歴史を知らない外国籍の者と判明
558日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:09:13.61
>>554

日本の都は畿内のどこかだが、倭の都は九州北部だな。
559日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:10:17.11
>>558
2匹目も釣れた
遣隋使の頃の日本の首都もわからない
外国籍の九州説
560日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:12:39.83
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。

(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。

さて、日本国がした説明はどれでしょう?

おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。
561日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:13:42.07
>>559

遣隋使を送ったのは誰?
562日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:13:44.54
まあ九州説が今の教科書に載ってるような日本史の全否定であることは確定なわけだ
563日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:16:55.90
>>553
>音が似ているからその他の記事がことごとく矛盾しても同じもの?

「その他の記事がことごとく矛盾」って
具体的には何?
九州説さん、精神論じゃなくて
具体的な指摘をどうぞ
564日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:19:59.56
>>561
推古天皇
565日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:20:38.96
>>483
>それが道里じゃないんなら陳寿は計算に入れてない
だから会稽東治之東にするのは不可能
それが道里なら投馬国は女王国以北なので九州説死亡

女王国は、投馬國を含むので、ほぼ九州島付近であり、
女王国以北は、女王国を含むので、「ほぼ九州島付近」以北になって、何の問題もなく、
道里は、「女王国の入り口」までの里数であるから、
不彌國や邪馬壹國女王之所都までの里数になり、これも何の問題もなく、
大和説や類スレ主らが死亡。
566日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:20:40.96
畿内教信者必死www
567日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:22:10.03
中国人いわく、畿内説の人って文章読解力無いよねえw
568日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:22:29.73
>建物と桃の種の位置関係ワロタ
>時系列上だと無関係となるわけだwww

が完全にニセ情報ってことは
わかったかな?
569日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:23:25.35
>>566
畿内説は学説だから九州説と違って信者なんてないよ
570日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:25:01.29
>>567
邪摩堆を大宰府と言う九州説が言っても
571日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:25:52.50
>>565
>道里は、「女王国の入り口」までの里数であるから、

その道里を計ったら「会稽東治之東」だった

「女王国の入り口」=北部九州  は不可能


九州説、死にました
572日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:26:22.95
>>568
そこ畿内説にとってスルーしてほしいところだもんなw
纒向の説明会ワロタ
573日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:27:23.35
>>570
邪摩堆「国」とは書いて無いよな
574日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:27:34.37
>>492
「南≠東」や「正北抵新羅」という史料実態や、
「陳寿の女王国以北は女王国を含む」という事が判らないらしい大和説は、
もう呪いの文句を吐くだけかな
575日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:29:04.44
魏志倭人伝には、大和は「大倭」って書いてあるな
576日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:30:11.36
>>493
いくら呪いの文句を吐いたって
邪馬台国や畿内やなんて文言は存在せず、
「南≠東」や「正北抵新羅」いう学問的史料事実や史料実態は変わらないよ
577日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:35:05.60
九州北部説の旅程の珍解釈ぷりに参ったわw

投馬国は修辞法ってかw
578日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:40:34.74
>>572
>そこ畿内説にとってスルーしてほしいところだもんなw
>纒向の説明会ワロタ

だってオツムの弱い九州説爺さんが世界で一人だけ呟いてる馬鹿話だよ
全世界がスルーするよ


>建物と桃の種の位置関係ワロタ
>時系列上だと無関係となるわけだwww

これ、あほすぎる作り話だったでしょ?
579日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:46:55.26
>>560
>倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。


倭国とは、

日本で唯一、後追いで「倭大國魂神社・倭大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。  わははははは   @阿波
580日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:51:03.79
>>532
>桃の種も出ない九州に卑弥呼はいなかった

倭人伝は「桃」の話が全くないから、大量の桃の種が出た吉備や大和には、
卑弥呼はいなかった。
581日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:53:37.21
ネトウヨの特徴

・邪馬台国→大和王権であり万世一系である
・自分の想像=史実です
・事実のみを正確に伝えることができず膨大な量の尾ひれ背びれを発生させる
・現物を見せず物語を作って言いくるめることに専念する
582日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:56:09.40
桃の種が出てきた纒向の穴は、死に体となった奥山で塞ぐので、僕たちはその上に柵をつくれば、よいのだな。。。
583日本@名無史さん
2020/04/02(木) 19:57:50.62
>>560
>倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。


倭国とは、

日本で唯一、後追いで「倭大國魂神社・倭大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。  わははははは   @阿波
584日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:09:29.18
>>536日本@名無しさん
>建物と桃の種の位置関係ワロタ
>時系列上だと無関係となるわけだwww

邪馬台国論争というよりも、お笑い畿内説www
585日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:12:38.39
>>539
>隋書には大和は邪馬台国の事と書いてあるよ

「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
後代の唐代の魏徴らの、
「自己解釈に拠る魏志の書き換え」になる説明文は、根拠にならないし、
隋書には「大和」の事など、書かれていないから、×だよ。

>ちなみに隋と大和は遣隋使で使者が行き来している

小野妹子が隋に行って「日本國」を名乗って、隋文帝に叱られた?のは、
開皇末であったんだし、
大業四年の裴清は、阿蘇のある九州に来たのであって、大和には来ておらず、
だから、書紀の造作のインチキであるし、
大和に唐使の裴世清が来たのは、12年後頃の唐代の「武徳中」であったんだし。
586日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:15:23.93
>>542
>隋書には大和は邪馬台国の事と書いてあるよ
より詳しく言えば、
隋書にいう大和は、魏志に書かれている(東遷前の)邪馬台なる者の事なりと書いてあるよ

後代の唐代の魏徴らの、
「自己解釈に拠る魏志の書き換え」になる説明文は、根拠にならないし、
隋書には「大和」の事など、書かれていないから、×だよ。
587日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:23:45.73
>>543
>都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
倭国の都は邪靡堆(邪摩堆=大和)すなわち魏書でいう所の邪馬台である

後代の唐代の魏徴らの、
「自己解釈に拠る魏志の書き換え」になる説明文は、根拠にならないし、
邪靡堆≠大和だし、
隋書には「大和」の事など、書かれていないから、×だよ。

>隋書倭国伝

隋書には「倭国伝」なんて存在せず、「俀」國伝であるから、これも×。
588日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:28:08.23
>>546
>魏志倭人伝で火山の事を書いてないのは邪馬台国は九州でないからだろう
琵琶湖くらいの湖は中国では驚くほどの事は無いけどあんな火山は珍しい

魏の役人たちは、阿蘇まで行っていなかったから書けないが、
隋使は実際に見聞したから、書けた。
589日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:31:45.77
邪馬台国は大和、投馬国は出雲。
この二か国が中心となりその他二十か国程で原始大和王権ができる。
590日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:36:13.98
九州説は自由闊達血気盛ん登り龍の勢い
たいして畿内説は戦々恐々意気消沈竜頭蛇尾
591日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:38:28.59
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮人の奥山氏が、今夜も、完全に論破されてしまったな。
592日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:40:33.13
>>591
朝鮮民族の奥山氏は、社会で活動していないことが、完全にバレてしまったね。
593日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:40:50.08
>>591

朝鮮人はお前だろw
594日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:44:23.93
>>551
>大和国は邪馬台国と言ってる

言っていない。

>それに隋とは遣隋使で使者が行き来をしている

隋書は、九州付近を俀國と書き、
それ以外の倭地域を倭國と書いて区別しており、
大和日本國はまだ存在していなかった、という書き方。
595日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:46:47.32
>>548
だからさ、柵と桃の種の穴との一致の解説を頼んでるのだが
答え出来ないないなら、黙っておいた方いいよ

桃が祭器ようだと言うが、古代一年中桃が入手できないわけだし
桃が季節的に入手困難な時それに変わった遺物を提示すべきじゃないか
596日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:50:10.06
>>554
>隋は遣隋使で日本と使者が行き来したと言っただろ

隋の頃は、隋は「日本」なんて国名や存在を認めていなかった。

>隋の頃の日本の都はどーこだ

中国が大和の日本国号を認めたのは、唐の武徳中だ。
597日本@名無史さん
2020/04/02(木) 20:57:17.40
>>557
>ハイ九州説は日本の歴史を知らない外国籍の者と判明

ハイ「南→東」や「正北抵新羅の無視」や、
「中国が大和の日本国号を認めたのは唐の武徳中」を認めない大和説者は、
日本の歴史を知らない、皇国史観の極右の・・・・と判明
598日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:01:51.81
>>559
2匹目も釣れた
遣隋使の頃には、 大和の「日本」という国号を隋は認めなかった。
認めたのは、唐の「武徳中」。
国粋皇国史観の宗教に狂った大和説
599日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:10:12.67
それにしても、
ほとんど『chosen』のネタばかりでしょ、
謎の専門用語なども、どういう事なんだろう?


『エラ通信』調べてみた?
まさか、ほんとーに、カミタマというわけでもないだろうし。
600日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:12:00.05
>>561
>遣隋使を送ったのは誰?

俀國では「阿毎、多利思北孤」。
扶桑国と呼ばれていた大和では「用明、亦曰目多利思比孤」であり、
使節の小野妹子が隋文帝に初めて日本国を名乗ったが認められず、
九州俀國が「此後遂絶」にあった後も、大和は「倭國」を名乗って、遣使を派遣していたらしく、
大和の「日本國」が認められたのは、唐の「武徳」中。
601日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:13:43.90
巻向の水路は、古墳造営の資材運搬用だよ
灌漑用なら、巻向以外に耕作に適した場所があったのだろう
巻向が、当時あの水路を作るだけの耕作地帯でも無いし、
大集落の形跡も見つかって無い

古墳造営基地かもしれんかな??
602日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:14:07.45
>>562
まあ大和説が、
唐書以前の中国史書などが記録しているような日本史の、
全否定であることは確定なわけだ
603日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:17:34.20
>>551
初心者は、そこから始めていいよ
いろいろ教えてやるよ
できればコテつけて
604日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:19:55.43
>>569
学説って何??
どこ???
605日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:20:55.08
>>564
>>遣隋使を送ったのは誰?

>推古天皇

天皇が出来たのは天智以後であり、
だから、推古は天皇ではなく、書紀の造作である可能性があり、×。
九州俀國のタリシホコは遣隋使を送って、「此後遂絶」になったりした。
606日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:28:36.89
>>569
>畿内説は学説だから九州説と違って信者なんてないよ

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
「畿内説」なんて学説ではなく、
(文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論の九州説とは違って)、
偽説の信者ばかり。
607日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:29:17.68
>>578
なにを言いたいの
シャッキとしてくれよ
608日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:31:20.52
桜本にある、ふれあい館?
子供の頃、よく遊びに行ったりしていたところなんだけど。



どういう事なんだろう。
609日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:34:24.16
>>595
>だからさ、柵と桃の種の穴との一致の解説を頼んでるのだが

柵の廃絶が庄内3
桃の種の穴が庄内3
ピタリ一致だが
610日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:34:51.83
大和をヤマトと読むようになったのは最近だろ
611日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:35:29.78
>>570
>邪摩堆を大宰府と言う九州説が言っても

隋書では、「邪靡堆」であって、「邪摩堆」ではないからこの男は×であり、
「大宰府」なんて存在もしなかった嘘つき騙しであるから×であり、
あったのは「太宰府」である。
612日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:36:44.75
>>577
ここ畿内説のスレなんだが・・・
他説批判で成り立ってるのかな??畿内説は??

足元を固めたほうがいい
613日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:41:10.74
古墳が完成したので土木事務所を解体して打ち上げやってたって話が信憑性高かったな
614日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:41:52.23
秦王国は天皇国だろ

つまり大和

天皇国と書くと隋王が怒るから響きの近い音の漢字で代用した
615日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:46:28.86
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.
616日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:46:39.18
>>601
>古墳造営基地かもしれんかな??

しかし、九州人は蚊帳の外!  わははははは   @阿波
617日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:49:01.99
>>613
正解
618日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:52:24.63
>>613

しかし、九州人は蚊帳の外!  わははははは   @阿波
619日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:57:25.54
>>564
ところが隋書では多利思比孤なる男王になっています。
620日本@名無史さん
2020/04/02(木) 21:59:08.73
>>581
>・事実のみを正確に伝えることができず膨大な量の尾ひれ背びれを発生させる

面白い表現だ。
その通りだと思う。
621日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:00:14.01
>>588
>魏の役人たちは、阿蘇まで行っていなかったから書けないが、
>隋使は実際に見聞したから、書けた。

やはり肥後狗奴国は邪馬台国に吸収されたのだろう。
622日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:00:36.71
>>609
うーーん
柵が先ということ?
すると祭器があの建物以降に行われた?

もうすこし解説してくれませんか
論叢は関係無く どのように解釈すればいいですか
623日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:01:43.64
>>614
>秦王国は天皇国だろ

天皇制はもっと後
624日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:09:27.65
だから言っているだろう、
謎の「さいきば事件(さかきばら事件)」など、
ほんとーは、もれ(仮)は、知り合いか何かなのかな?

当時の年齢?なども違うとか。
625日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:13:49.23
(当時、不明?)同じ学校に通っていた・・・誰かとか?

あそこに亀がいるよ?
626C級キウス鑑定士
2020/04/02(木) 22:14:29.73
595 601 603 604 607 612 622

キウスは祭祀をサイキと読んでいる
627日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:20:15.12
>>570
>>道里は、「女王国の入り口」までの里数であるから、

>その道里を計ったら「会稽東治之東」だった
「女王国の入り口」=北部九州  は不可能
九州説、死にました

陳寿の「計其道里當在會稽東治之東」は、「女王國の位置推定」文であり、
女王國は南九州の投馬國も含んで「ほぼ九州島付近」であり、
だから、女王國の入り口までの道里を示せば、
女王國は、その入口から南方の「水行二十日」の範囲にある事になり、
會稽東治之東とほぼ合っており、問題は何もなく、
類スレ主が死んだの。
628日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:22:44.33
>>623
その前に天王と言っていた時代があるんだよ

正確に書くと、秦王国は天王国

天王国と書くと煬帝が怒るから裴世清は忖度して秦王国と書いた
629日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:26:39.82
>>627
>陳寿の「計其道里當在會稽東治之東」は、「女王國の位置推定」文であり、
>女王國は南九州の投馬國も含んで「ほぼ九州島付近」であり、

不可能だね
道里が北部九州までしか書いてないんなら、陳寿は北部九州までしか計れない。
しかし北部九州は「会稽東治之東」ではありえない
よって九州説死亡が確定
630日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:27:15.74
>>626
wwwww
631日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:28:10.54
>>589
>邪馬台国は大和、投馬国は出雲。
この二か国が中心となりその他二十か国程で原始大和王権ができる。

「南≠東」や「南≠東北」などに拠って、この大和説の類スレ主が、×。
632日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:29:10.03
飯の種が尽きてしまった畿内説
掘れば掘るほど古墳造営基地局だった可能性が高まってしまう纏向遺跡

<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会

奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。

■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%

■結論
纏向遺跡は大陸、九州とも疎遠だと判明した
633日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:32:14.00
 ギリシャ・クレタ島の線文字Aは漢字やカタカナによく似てる。不思議な文字。
漢字、カタカナ文字はギリシャ系の人達が持ち込んだのか?
中国新石器時代の甲骨文字、象形文字などは、後の漢字とは似ていない。
漢字の一二三、ギリシャ数字のTUVなどは同じ思考のように感じる。

 クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ファイル:0726_La_Canée_musée_linéaire_A.JPG
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%BF%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A

  「コロナウイルス」の名称はラテン語のcorona(コロナ)およびギリシャ語の
王冠または光冠(丸い光の輪)、花冠を意味する κορώνη(korṓnē コロネ)に由来する。

 カタカナの「コロナ」を合体さすと「君」という漢字になり、意味と形が一致してる。
意味は万人の上に立って天下に号令する人、
天子・帝王・諸侯。また人の上に立つべき徳のある人。

1.「君主・君侯・君国・君臨・君恩・君子・主君・名君・神君・幼君・先君・亡君・忠君」

2. 敬称。

君(きみ、クン)とは、主に東アジアの漢字文化圏の王朝でみられた君主の称号(君主号)
または皇族・王族、貴族(特に外戚・功臣)の称号。
634日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:32:20.53
>>632
>掘れば掘るほど古墳造営基地局だった可能性が高まってしまう纏向遺跡

そして、どんどん九州が遠ざかる!  わははははは   @阿波
635日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:39:55.82
>>632
それ畿内説と関係ゼロな
九州説って脳死してる?
636日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:43:59.03
>>626
昔、サイキバっていたけど、もしかして…
637日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:46:52.52
畿内説は知性
九州説は痴性もしくは恥性
638日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:52:18.21
■考古学的研究成果の例
・纏向の大型建物で卑弥呼主催の祭祀が行われていたニダ!
・大量の桃が献上されていたニダ!
そう見るのが考古学的に妥当であるニダ!

■現実
纏向遺跡の桃の種の発見場所からすると、建物と桃の種は時代が一致せず無関係

桃の種が埋まっていたのは柵の下
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
639日本@名無史さん
2020/04/02(木) 22:56:32.28
漢字を読めないのも
誤変換に気がつかずに繰り返すのも
日常はハングルを使ってると考えれば納得だな
640日本@名無史さん
2020/04/02(木) 23:04:14.14
>>614
>秦王国は天皇国だろ 天皇国と書くと隋王が怒るから響きの近い音の漢字で代用した

秦王は、隋代や唐初期に、太子以外に、
次の天子や天皇になる権利や継承権のある王の呼称であったのであり、
「經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國」
で、糸島付近の竹斯國に上陸して、その東に至る所に秦王國があるから、
ほぼ博多付近の那の津〜糟屋付近になり、
大和王権の宣化らがいた所になる。


天皇国と書くと隋王が怒るから響きの近い音の漢字で代用した
641日本@名無史さん
2020/04/02(木) 23:19:47.31
>>640
次の天子や天皇になる権利や継承権のある王の呼称なら、
なおさら大和一択あるのみ
642日本@名無史さん
2020/04/02(木) 23:24:24.54
>>638
>桃の種が埋まっていたのは柵の下

現実?

それ、九州説さん独自の空想だよね
そんな報告もないし
報道もない
643日本@名無史さん
2020/04/02(木) 23:36:51.56
>>641
皇国史観の亡霊は消えてくれ
644日本@名無史さん
2020/04/02(木) 23:40:14.34
出典のまったく出せないニセ情報ながすのは九州説の特徴だよ。
九州説崩壊の証拠でもある
645日本@名無史さん
2020/04/02(木) 23:43:23.30
>>643
なら九州説が消えるのは歴史の必然だよね
九州説は皇国史観のために創作された説だもの
それが証拠に戦時中の通説だった
646日本@名無史さん
2020/04/02(木) 23:45:18.69
秦王(しんおう)は、中国における諸侯王、あるいは地方政権の君主の王号。

だから奴国の後身の那の県の王か?
647日本@名無史さん
2020/04/02(木) 23:45:59.89
ブツブツ言いながら桃の種が出た穴へと引き返す奥山あわれ
648日本@名無史さん
2020/04/03(金) 01:28:12.74
>>587
邪靡堆は邪摩堆の誤記な
後漢書や北史に大和の事が邪摩堆と書かれている
そして隋が国交を持ったのは大和朝廷
よって邪靡堆は複写された時に生じたかした邪摩堆の誤記という事がわかる
649日本@名無史さん
2020/04/03(金) 01:29:35.56
>>594
>>596
このへんは完全に単なる言いがかりだな
650日本@名無史さん
2020/04/03(金) 01:34:06.41
>>647
九州説、また負けたの?
651日本@名無史さん
2020/04/03(金) 01:43:49.45
>>638
>纏向遺跡の桃の種の発見場所からすると、建物と桃の種は時代が一致せず無関係
>桃の種が埋まっていたのは柵の下

これ、九州説のニセ情報と確定しました
652日本@名無史さん
2020/04/03(金) 01:53:46.02
>>631

具体的な邪馬台国と投馬国とその他二十か国の地域を示して反論どうぞ。

> >>589
> >邪馬台国は大和、投馬国は出雲。
> この二か国が中心となりその他二十か国程で原始大和王権ができる。
>
> 「南≠東」や「南≠東北」などに拠って、この大和説の類スレ主が、×。
653日本@名無史さん
2020/04/03(金) 05:55:50.46
>>642
柵と桃の種が埋まってた穴が
同じ位置というのは報告されているよ。
しかし、その原因(経緯)については報告されていない
654日本@名無史さん
2020/04/03(金) 06:06:23.18
桃ってさ 夏じゃねーの
夏だけ祭祀?その他の季節は何してたの?何を使ってたの?
お盆の墓参りならいいけど・・・・
655日本@名無史さん
2020/04/03(金) 06:21:38.77
>>648
>そして隋が国交を持ったのは大和朝廷

思い込み
656日本@名無史さん
2020/04/03(金) 06:24:40.02
巻向の建物解体後に桃の種は穴を掘って埋めたと現地の説明者が言っていた
「それまで桃の種はどこにあったの?」・・・・説明者沈黙
「桃の種で祭祀なら、柱同様に持っていかないの」・・・説明者沈黙
657日本@名無史さん
2020/04/03(金) 06:34:31.33
>>637
>畿内説は知性 九州説は痴性もしくは恥性>

畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙しの・・・・宗教的文言であるから、×であり、
大和説は、「南→東」や「正北抵新羅の黙殺」などの史料事実や史料実態の曲解否定であり、
痴性もしくは恥性。
九州説は、文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論であり、知性。
658日本@名無史さん
2020/04/03(金) 06:54:54.80
>>640の訂正
>秦王国は天皇国だろ 天皇国と書くと隋王が怒るから響きの近い音の漢字で代用しta
天皇国と書くと隋王が怒るから響きの近い音の漢字で代用した

秦王は、隋代や唐初期には、太子以外に、
次の天子や天皇になる権利や継承権のある王の呼称であったのであり、
「經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國」
では、糸島付近の竹斯國に上陸して、その東に至る所に秦王國があるから、
ほぼ博多付近の那の津〜糟屋付近になり、
書紀に拠れば、大和王権の宣化らがいた所になる。

継体が磐井を倒して、糟屋の屯倉を手に入れて、
九州倭国の王家に参加出来る事になった証拠の一つ。
大和王らは、安閑や宣化や欽明や用明などのように、
(正北抵新羅の)九州倭国の太宰帥や率などの執政的な地位に、
何度か就いていたようであった。
659日本@名無史さん
2020/04/03(金) 07:04:42.24
>>641
>次の天子や天皇になる権利や継承権のある王の呼称なら、
なおさら大和一択あるのみ

ない。
九州倭國は、葛子の後も「姓阿毎、字多利思北孤」やサチヤマが出て、
白村江で大敗して亡国の運命に晒されて、
大和の残存王家であった天智が一旦称制し、
九州倭国系の天武が大和で九州倭国の併合吸収継承する事を決めた。
660日本@名無史さん
2020/04/03(金) 07:05:38.95
それよりも老婆談、なぜ詳しいんだろう。
セメント、日本鋼管の辺りの話とか、何かの家の人なのかな。

戦争の地図のようなものなどが出てきたでしょ、
日本最初の空襲地点(被害?)とか、本当なのかな。
661日本@名無史さん
2020/04/03(金) 07:09:49.29
>>644
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの史料事実や史料実態の曲解否定をして、
文献や考古の「出典のまったく出せないニセ情報」をながすのはを、
大和説の特徴だよ。
大和説崩壊の証拠でもある
662日本@名無史さん
2020/04/03(金) 07:15:43.60
>>645
なら大和説が消えるのは歴史の必然だよね
大和説は皇国史観のために創作された説だもの
それが証拠に明治以後の通説だったし、
戦後の(自民党長期政権下での)国粋国家民族至上主義での、
皇国史観復権のための手段であったんだもの。
663日本@名無史さん
2020/04/03(金) 07:16:32.11
畿内説もアベノマスクも支持されないww
664日本@名無史さん
2020/04/03(金) 07:30:38.69
>>654
同意する

桃は中国の神仙思想から邪気を払う、不老長寿を得ることができる縁起の良いものであったという。
何かの祭祀の時に使われ、祭祀が終わった後に祭器と共に桃も埋められたということらしい。
すると、夏場だけ祭祀が行われたのが巻向とならないかな?
665日本@名無史さん
2020/04/03(金) 07:30:53.52
現代の藤原氏 一条實昭
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
石原似のモロ渡来形質だな
666日本@名無史さん
2020/04/03(金) 07:31:35.20
爆弾が落ちてくるという連絡が来た?と言っていたのかな、
何なのか知らないけど、伊達郡(かわまた?)に避難したんだよと言っていたり。
667日本@名無史さん
2020/04/03(金) 07:31:40.02
>>656
こういう捏造をするから九州説は馬鹿にされる
668日本@名無史さん
2020/04/03(金) 07:42:14.71
たしか広瀬座というところの話もしているし、
伊達郡に(避難)戻ったときも?・・・何やら?とか同じような話をしていたし。
669日本@名無史さん
2020/04/03(金) 07:46:17.62
>桃の食べかすを捨てたごみ溜めの上に大型建物施設を立ててサイキバwにした・・・、
>時系列上だと無関係となるわけだが・・・

もはや、邪馬台国論争というよりは、お笑い畿内説www
670日本@名無史さん
2020/04/03(金) 08:02:26.82
【長野】藤森栄一賞に赤塚次郎さん 邪馬台国と対立する「狗奴国」の位置を伊勢湾沿岸とする説を提起 県考古学会
http://2chb.net/r/newsplus/1585861158/
671日本@名無史さん
2020/04/03(金) 08:04:56.52
>>659-660
裴世清一行の倭国訪問の真相は、築紫に到着後、難波吉士雄成の引率で難波津経由で
都の飛鳥に入り、元興寺などを訪問して、難波大都経由で帰ったとの事

だから秦王国は天王国=大和飛鳥



『三国史記』卷第27 百済本紀第5 武王9年3月によれば「九年 春三月 遣使入隋
朝貢 隋文林カ裴C奉使倭國 經我國南路[3]」とあり裴清は百済南部を経由した
ことが記述されている。

『日本書紀』では次のとおり裴世清と記されている。その12人の一行は小野妹子と
ともに筑紫に着き、難波吉士雄成が招いた。難波高麗館の上に館を新しく建てた。
6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。
「鴻臚寺の掌客」である裴世清の「皇帝問倭皇」という書を阿部臣が大門の机の
上においた。9月5日に難波大都に、11日に帰った。

『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』所引の丈六光銘にも、大隋国使主鴻臚寺掌客裴世清
と使副尚書祠部主事遍光高らの来朝の記事が記されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B4%E4%B8%96%E6%B8%85
672日本@名無史さん
2020/04/03(金) 08:14:49.93
ウソをつくことでしか維持でいない九州説
ソース出せない九州説
終わってるよ
673日本@名無史さん
2020/04/03(金) 08:16:47.10
>神仙桃の食べかすを捨てたごみ溜めの上に大型建物施設を立ててサイキバwにした・・・、

時系列をごちゃ混ぜにして茶化す、まいどお笑い畿内説www
674日本@名無史さん
2020/04/03(金) 08:18:59.75
エー、まいどお笑い畿内説www
675日本@名無史さん
2020/04/03(金) 08:37:39.43
畿内説の言い訳はもう妄想というより故意の捏造だね
676日本@名無史さん
2020/04/03(金) 08:44:58.47
>>673-675
だから、それ
悪口言ってるだけで
まったく反論してないでしょ

だから
人が見たら
九州説が負けたってわかる

九州説の自滅
677日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:09:20.85
>>648
>邪靡堆は邪摩堆の誤記な

前代史書の記載を後代史書の記載に拠って「誤記だ」とするのは、
後代史家の方が「自己解釈に拠る書き換えを実行していた」という可能性がいくらでもあるんだから、
何らかの後代思想や現代思想に狂った・・・・詐欺師な。

>後漢書や北史に大和の事が邪摩堆と書かれている

「大和の事」ではないな。
5世紀の後漢書は、久留米付近の倭國王の居地を邪馬臺國と書き、
北史は、659年頃に、6〜7世紀の俀國王の都を邪摩堆だろう、と推定した。

>そして隋が国交を持ったのは大和朝廷 <

大和の小野妹子は、開皇20年の九州俀國の使節に同行して?、
隋の文帝に、大和政権の「日本國」呼称を唱えたが、文帝に拒否された?らしい。

>よって邪靡堆は複写された時に生じたかした邪摩堆の誤記という事がわかる

この現代大和説男は、何の事情も史料実態も判らず、
「邪靡堆は複写された時に生じたかした邪摩堆の誤記」と断定し、
世間の人々を騙そうとしている・・・・詐欺師である、という事がわかる。
678日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:12:25.52
>>650
>九州説、また負けたの?

「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説、
また負けたの?。
679日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:15:42.86
>>676
ショボイ
ショボイ
キナイコシ
680日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:21:51.09
>>679
だから、悪口だけ言ってると
九州説負けの宣伝っだって
681日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:23:12.98
>>653
>柵と桃の種が埋まってた穴が
同じ位置というのは報告されているよ。
しかし、その原因(経緯)については報告されていない

しかし、纏向の発掘の大和説学者らは、
何故、柵と「桃や庄内3の土坑」との、どちらが先でどちらが後であったのか?を、
何故、調べて言及しないんでしょうね?。

おそらく、それは「纏向説にとっては、都合が悪かった」から。
普通は、柵が出来ていたんなら、
その柵の下に「ゴミ捨て場の庄内3の土坑」など造らない。
だから、普通は、先に「ゴミ捨て場の庄内3の土坑」があったところに、
後から、柵を作った。
682日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:25:43.27
漢字もろくに読めないのに研究者を見下すキチ
>>653・654・656
683日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:26:50.94
>>656
>巻向の建物解体後に桃の種は穴を掘って埋めたと現地の説明者が言っていた
「それまで桃の種はどこにあったの?」・・・・説明者沈黙
「桃の種で祭祀なら、柱同様に持っていかないの」・・・説明者沈黙

ふーん?。
684日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:29:32.01
>>677
>この現代大和説男は、何の事情も史料実態も判らず、
>「邪靡堆は複写された時に生じたかした邪摩堆の誤記」と断定し、

日中の学者たちが史料の分析を長年尽くして通説になってる話なんだから
いまさら素人が具体的な指摘もなく「何の事情も史料実態も判らず」なんて叫んでも
無駄だって
685日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:32:08.10
>>681
>何故、柵と「桃や庄内3の土坑」との、どちらが先でどちらが後であったのか?を、
>何故、調べて言及しないんでしょうね?。

公式発表されててみんなが知ってるからだよ
686日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:34:41.74
大型建物が古墳建造作業員の食堂であった確率が99%
687日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:36:34.84
>>683
見え見えの作り話を見抜けない低知能だから九州説にハマるってこと
688日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:38:24.67
>>686
そうやって九州説がどんどん民衆の信頼を損なってくれると好都合
689日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:45:34.45
九州北部説はまず旅程解釈からしてダメ

投馬国が単なる修辞法とか、あほかと
690日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:45:55.32
今日の夜9時からBS-TBSで
『諸説あり! 邪馬台国2時間スペシャル』
の再放送やるぞ
中国人学者が揃って九州だと断言した番組だ

奥山は正座して観ておけ
691日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:46:56.22
>神仙桃の食べかすを捨てたごみ溜めの上に大型建物施設を立ててサイキバwにした・・・、

時系列をごちゃ混ぜにして茶化す、まいどお笑い畿内説www
692日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:48:05.60
>>690
また九州説が恥かく晒し番組か
693日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:52:09.44
>>667
>こういう捏造をするから九州説は馬鹿にされる
 
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」や、
「邪馬壹國→邪馬臺國→邪馬台国→ヤマト国→大和國」や、
「邪馬台国→女王國や倭國」などのような、
そういう史料事実や史料実態の曲解否定の嘘つき騙しの捏造をするから、
大和説学者や大和説者は馬鹿にされる
694日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:53:55.78
畿内説が纏向を狗奴国と宣伝し始めたな

【長野】藤森栄一賞に赤塚次郎さん 邪馬台国と対立する「狗奴国」の位置を伊勢湾沿岸とする説を提起 県考古学会
http://2chb.net/r/newsplus/1585861158/
695日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:54:07.00
『諸説あり! 邪馬台国2時間スペシャル』

エー、まいどお笑い畿内説番組www
696日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:55:25.77
>>690
奥山はケーブルテレビの地上波しか契約していないので、BSは見れないそうです
697日本@名無史さん
2020/04/03(金) 09:57:51.84
>>670
>【長野】藤森栄一賞に赤塚次郎さん
邪馬台国と対立する「狗奴国」の位置を伊勢湾沿岸とする説を提起 県考古学会・・・

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
「狗奴国」も「南≠東」であるから、
藤森栄一も赤塚次郎も県考古学会も、皆、×。
698日本@名無史さん
2020/04/03(金) 10:26:55.99
>>686
>大型建物が古墳建造作業員の食堂であった確率が99%

その通り。   「忌部はん」 たちのね。   @阿波
699日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:09:26.24
畿内系の人間もレベル低すぎるなこのスレ
アホの九州説とジャレてるだけのアホしかいない
テンプレ読むだけのスレだな
700日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:10:35.38
>>671
>裴世清一行の倭国訪問の真相は、築紫に到着後、難波吉士雄成の引率で難波津経由で
都の飛鳥に入り、元興寺などを訪問して、難波大都経由で帰ったとの事 だから秦王国は天王国=大和飛鳥

これも、×。隋書俀國伝の大業四年の「隋使」の文林郎裴清であって、
書紀の「唐使」の鴻臚寺掌客裴世清ではなく、
また、隋書は阿蘇山を見聞記録しているが、書紀にはそんな記録は一切ないなど、
書紀の「裴世清の大業4年の大和訪問」の造作が明確であり、
また古田さんが示された「大業4年の裴世清の大和訪問」の諸矛盾や、
それらが12年後位の唐代初期の「唐使の鴻臚寺掌客裴世清の来日」であったとすれば説明が付く事と、
延喜講記の記録でも、大業4年の隋使の大和訪問はなく、
唐代の武徳中に大和の「日本国」名を承認された事など、
書紀の「大業4年の隋使の大和訪問」の記載は、書紀の造作捏造の失敗である。

>『三国史記』卷第27 百済本紀第5 武王9年3月によれば「九年 春三月 遣使入隋
朝貢 隋文林カ裴C奉使倭國 經我國南路[3]」とあり裴清は百済南部を経由した
ことが記述されている。

「文林カ裴C奉使倭國 經我國南路」は、
書紀の「唐使の鴻臚寺掌客裴世清の来日」に」に合わないから、書紀が×の記録。
701日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:14:12.04
>>691
>時系列をごちゃ混ぜにして茶化す、まいどお笑い畿内説www

九州説はこういう非難ばかりするけど
なぜ「時系列をごちゃ混ぜ」だと言うのか理由は
いくら聞かれても貝のように口を閉ざす

そして「時系列をごちゃ混ぜ」と非難されてるものは
専門の考古学者が研究して公的機関が公式発表したもの

こうしてみると、もう九州説は邪馬台国論争を完全に諦めてヤジ飛ばし野党に徹するつもりだな
702日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:20:29.27
>>671の続き
>『日本書紀』では次のとおり裴世清と記されている。その12人の一行は小野妹子と
ともに筑紫に着き、難波吉士雄成が招いた。難波高麗館の上に館を新しく建てた。
6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。
「鴻臚寺の掌客」である裴世清の「皇帝問倭皇」という書を阿部臣が大門の机の
上においた。9月5日に難波大都に、11日に帰った。<

これも同じ。
「鴻臚寺の掌客の裴世清は唐使」であり、隋ではなく、書紀の造作であり、
おそらく「12年後の唐始めの武徳中の鴻臚寺掌客の唐使の裴世清」の記録であり、

>『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』所引の丈六光銘にも、大隋国使主鴻臚寺掌客裴世清
と使副尚書祠部主事遍光高らの来朝の記事が記されている。

これも、文林郎裴清ではなく、「大隋国使主鴻臚寺掌客裴世清」と書いてしまったから、
『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』所引の丈六光銘の間違いであり、根拠にならない。
703日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:23:09.04
>>699
>テンプレ読むだけのスレだな

ここのテンプレは、ただの邪魔な装飾だから、読むこともないよ。  わははははは   @阿波
704日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:24:05.90
>>672
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」や「隋使≠唐使」や、
「文林郎裴清→鴻臚寺掌客裴世清」などウソをつくことでしか維持でいない大和説
ソース出せない大和説
終わってるよ
705日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:25:47.47
>>647
だから、それ  悪口言ってるだけで まったく反論してないでしょ
だから 人が見たら 大和説が負けたってわかる

大和説の自滅
706日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:26:29.50
>>702
>「鴻臚寺の掌客の裴世清は唐使」であり、隋ではなく

北朝をひっくるめて「唐」と言ってるだけ
日本は唐が滅んだ後もずっと中国を唐と呼び続ける
国号という意識が鈍い当時の日本人らしくて信憑性が高い
707日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:28:17.85
>>705
それ、畿内説の悪口言ってる九州説の投稿だぞ
また九州説が自滅してるな
708日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:28:30.86
>>680
だから、「南≠東」や「正北抵新羅」などに反論できず、
悪口だけ言ってると
大和説負けの宣伝っだって
709日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:28:34.45
時系列をごちゃ混ぜにして茶化す、まいどお笑い畿内説笑的機関www
710日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:33:48.26
>>687
大和説人種は、「南→東」や「正北抵新羅」や「唐使≠隋使」など、
見え見えの作り話を見抜けない低知能だから、
大和説にハマるってこと
711日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:37:36.74
桃の種と建物との関係は無いという事ですね

勝手な想像で桃はお供え物と発表したんですね

奈良判定の村がやりそうな事だ
712日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:38:08.39
>>688
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」に気が付かず、
「隋使の文林郎裴清→唐使の鴻臚寺掌客裴世清」などの書紀の嘘つき騙しに気付かず、
そうやって大和説がどんどん民衆の信頼を損なってくれると、
好都合
713日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:42:07.62
>>711
>桃の種と建物との関係は無いという事ですね

九州説はどうして平気でそんな嘘つくの?
反社会勢力なの?
714日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:44:33.15
>>690
大和説者は、「南→東」や、
「里記載は、(周朝里や魏朝西晋朝の里=短里ではなく)、始皇帝の長里」説では、
まず旅程解釈からしてダメ
投馬国が単なる修辞法で女王国に含まないとか、
あほかと
715日本@名無史さん
2020/04/03(金) 11:45:29.55
>>712
「正北抵新羅の隠蔽」って
また九州説がウソついてる

すぐバレるのに
716日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:04:03.01
畿内説による印象操作
@お供え物の桃が沢山積まれた建物で卑弥呼が鬼道を行っていた
A建物を取り壊した後に穴を掘って桃を埋めるという祭祀の痕

現場確認の結果
・桃の種が埋められた場所は建物とは関係のない場所である
・桃は遠い昔に埋められたもの
・建物は後世(4世紀)で建てられた何らかの施設
717日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:15:41.26
>>716
>・桃の種が埋められた場所は建物とは関係のない場所である
>・桃は遠い昔に埋められたもの
>・建物は後世(4世紀)で建てられた何らかの施設

笑える

願望書いてなんか楽しい?
理由なんか何もないでしょ
それで学者の研究成果をどうやって否定する気?

短冊に書いて星にお供えでもする?


九州説死んでるよ
718日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:18:23.67
>>717
桃の下に何も無かった
建物を取り壊した木材の破片すら無い
719日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:19:14.90
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
720日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:24:28.16
纏向の特徴
・3棟構成の建物があり、周りに住居は無い
・建物下から東海産の飯炊き土器が大量出土
・土木用具は沢山あるが農具は無い
・残飯各種
・近所には大型古墳

どう見ても古墳造営キャンプ場だ
721日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:28:50.70
奈良判定で村おこしのマクムク、ネタバレ・・、
722日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:39:05.27
>>718
それが何?
お馬鹿なイチャモンは九州説の品位をさらに下げるよ
723日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:39:14.90
>>684
>日中の学者たちが史料の分析を長年尽くして通説になってる話なんだから

どの学者?
名前は?
724日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:39:42.22
>>699

あれを読むのかw
725日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:40:28.36
>>720
>どう見ても古墳造営キャンプ場だ

「どう見ても」は思考停止のサイン
その結論が出る理路がないんだよ
726日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:41:40.48
>>724
読めないと学力は高校生以下です
727日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:41:55.86
ニュース速報から突如として三角のスレが消されたな
728日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:43:44.96
>>723
個人名なんか不要だな
そう校訂されて公刊されてるんだから
729日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:50:09.50
>>727
知らんな。学問板と無関係だ。
730日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:52:45.32
あげ進行
731日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:53:55.48
北部九州は高良玉垂命を祖とする磐井の一族が六世紀の磐井の乱で敗北するまで支配。
南九州は隼人が八世紀の隼人の反乱で敗北するまで支配。
遠くにあって名前しかわからない二十余りの国など存在する余地がない。
732日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:55:12.21
狗奴国は久努国(くののくに)という、ちゃんと史実に出てくる静岡の国だぞ

もちろん史実に出てくる久努国は邪馬台国が旧久努国を滅ぼしてから大和朝廷が
建てた新久努国だが

倭人伝に出てくる狗奴国こと旧久努国は静岡から神奈川あたりに広がっていた国で、
都は足高尾上遺跡群という大規模集落遺跡のある沼津あたりで、卑弥弓呼の陵墓も
ちゃんと見つかっていて、同じく沼津にある3C中頃の東日本で一番規模の大きい
高尾山古墳だよ
733日本@名無史さん
2020/04/03(金) 12:59:45.26
>>732
妄想と現実の区別ぐらいつけろ
いい年して
734日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:01:08.06
無能考古学者の特徴

・邪馬台国→大和王権であり万世一系である
・自分の想像=史実です
・事実のみを正確に伝えることができず膨大な量の尾ひれ背びれを発生させる
・現物を見せず物語を作って言いくるめることに専念する
735日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:04:40.54
九州説の低能は最初から論外としても畿内の話してる奴もバカしかいないな
736日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:10:48.99
>>735
そう思う理由は?
737日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:12:27.36
>>734
罵ってないで、具体的な反論をしなさい九州説
九州説が死に体だって宣伝してるのと同じだよ
738日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:13:30.23
>>706
>>「鴻臚寺の掌客の裴世清は唐使」であり、隋ではなく

>北朝をひっくるめて「唐」と言ってるだけ
日本は唐が滅んだ後もずっと中国を唐と呼び続ける
国号という意識が鈍い当時の日本人らしくて信憑性が高い

ダメだ。
大和の『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』所引の丈六光銘の記録では、
「大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清」と、
唐ではなく「隋」の呼称を使ってしまっている。
739日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:14:50.66
>>735

>>720
740日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:15:57.18
>>711
>桃の種と建物との関係は無いという事ですね
勝手な想像で桃はお供え物と発表したんですね
奈良判定の村がやりそうな事だ

ふーん。
741日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:16:12.44
>>739
でも>>720ってばかでしょ?
742日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:19:29.22
>>713
「南→東」や「正北抵新羅無視」の大和説者は、
どうして平気でそんな嘘つくの?
反国民、反社会勢力なの?
743日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:24:30.33
>>732
>狗奴国は久努国(くののくに)という、ちゃんと史実に出てくる静岡の国だぞ

東海忌部といいなさい!   @阿波
744日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:25:12.06
>>735
その通り。   @阿波
745日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:27:04.04
>>740
九州説はニセ情報が好き
746日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:31:31.23
>>738
>「大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清」と、
>唐ではなく「隋」の呼称を使ってしまっている。

それは金石文だから別だね
747日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:42:13.27
>>716
>現場確認の結果

いつ、誰が確認した?

明らかに出来ないなら
九州説がウソついた証拠がまた増える
748日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:46:13.82
>>747
>いつ、誰が確認した?

アホの橿考だろw
749日本@名無史さん
2020/04/03(金) 13:57:21.04
>>748
そんな確認は存在しないな
また九州説こウソだ
750日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:00:04.81
ガセネタを、流し続ける九州説
751日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:04:34.27
>>748
市の機関が調査中の遺跡に、県の機関が割って入って確認することはありません
ガセネタ確定ですね
752日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:05:37.35
どうせ古代のことだからと、時系列をごちゃ混ぜにして茶化す、まいどお笑い畿内説www
753日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:06:58.02
大和王権の歴史について研究してあげよう

邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
754日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:07:47.71
>>752
そうそう都合の悪い出土品はすべて混入物扱いw
755日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:12:58.86
>>752
時系列をごちゃ混ぜにしたって証拠は?
756日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:26:47.04
常にウソつく九州説
757日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:35:34.87
メモ

■纏向遺跡
「しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が
3世紀後半以降の可能性がある。」
758日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:38:21.74
>>757
その嘘どこからのコピペ?
またWikipedia?
759日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:44:28.96
ネットはキチガイ九州説が大声でわめき散らしてばかりだからまともな話が出ないな
まぁ畿内の話してる奴もアホしかいないが
760日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:51:46.37
>>758
いや、布留0の年代観が古くさいだけだな
761日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:51:56.56
つまり銅鐸が出土したからといって、その下の層が銅鐸時代より古い層とは言えないという事だな

纏向遺跡第168次調香現地説明会資料
「今回の調査からは遺構に伴うものではありませんが、
特筆すべき遺物として古墳時代後期の包含層から銅鐸の鰭の破片が出土しています。」
762日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:54:03.44
>>761
纏向編年は古物商の倉庫跡を基準としてしまったから合わないのだね
763日本@名無史さん
2020/04/03(金) 14:58:14.52
福岡市の那珂八幡古墳 北部九州独自の形状(纏向とは無関係)
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/486635/

なるほど
764日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:02:26.33
>>763
このスレのテンプレがネタにしてる学者の説だからな

「近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だった」
765日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:04:50.62
>>761
ちゃんとした層序のある土壙の遺物と包含層のを一緒にごちゃ混ぜにする九州説はアホってこと
766日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:10:23.75
<箸墓古墳で馬具出土>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」 と発表した。
 
 
 
<正常な歴史見解>
鐙をはじめて本格的に使ったのは、5世紀にフン族(アッティラ王が率いる北アジアから東欧の幅広い地域を根城とした騎馬系遊牧民族)だと言われています。
767日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:11:34.41
>>764
妄想の上に成り立つ妄想乙
768日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:12:25.23
>>765
妄想の上に成り立つ妄想を成立させるための後出し基準乙
769日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:20:38.18
>>716
>畿内説による印象操作
>@お供え物の桃が沢山積まれた建物で卑弥呼が鬼道を行っていた
>A建物を取り壊した後に穴を掘って桃を埋めるという祭祀の痕
 
 
何らかの効能を謳ったサプリメントと同様の処置が必要だな
770日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:37:04.17
と言うか九州説のアホが毎回喚いてる
「大和朝廷が卑弥呼の後継者を自称した」とか言うバカ妄想だけど

大和朝廷は卑弥呼や邪馬台国の後継者なんて全く称してない
どころか完全に無関係だと主張してるんだが
日本側から中国に提出されてる系譜に卑弥呼の台与も一切関係してない
いったい何を根拠に叫んでいるのやら

邪馬台国の会とか古田とか言うバカの珍説をそのまま叫んでるのがよく分かる
771日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:42:00.18
>>770
誰と話てんの?
壁?w
772日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:47:35.78
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

馬具の一種。
鞍 (くら) の両側に吊下げて,乗る人が足を掛けるもの。
【ヨーロッパではローマ時代,中国では漢代に始る。】←成立時期
輪になっていて足を掛けるものと,足の前面を包むようになっていて,足を載せる式のものと2種ある。
前者を輪鐙といい,鉄製で古今を通じて広く用いられ,日本では古くは上古〜平安時代の唐鞍 (からくら) に限って用いられた。
後者は壺鐙といい,日本独自のものらしく,足の前半を踏込むところが壺状になっているのでこの名がある。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

馬具の一種。鞍(くら)に付属し、鐙革(あぶみがわ)で馬体の左右の外側につるされ、馬に乗り降りするときや乗馬中に騎手の足の重みを支え、馬上での騎手の動きを容易にするもの。
日本語の起源は足踏(あしぶみ)が転化して「あぶみ」となったとされる。
鐙を発明したのは乗馬の得意な騎馬民族ではなく、得意でない農耕民族が馬に乗るときの足ふみとしたものが発達して、騎手に都合のよい道具となったものと考えられている。
【鐙は出土品などからみて、紀元前4世紀のスキタイや前2世紀のインドや中国の漢の時代に存在していたらしい。】←成立時期
鐙には種々の形が知られている。世界共通の鐙は輪鐙(わあぶみ)を基本としたものである。
最初は革紐(かわひも)や縄が用いられ、のちに木製や金属製になった。
わが国には古墳時代に輪鐙が伝来し、5世紀以後には壺鐙(つぼあぶみ)がつくられ、奈良・平安時代には舌長鐙へと発展し、わが国独特の舌のある鐙になって江戸時代に至っている。
明治以後は輪鐙の一種である洋鐙が用いられている。[松尾信一]
『日本乗馬協会編『日本馬術史 第3巻』(1940・大日本騎道会/1980・原書房) ▽森浩一編『日本古代文化の探求・馬』(1974・社会思想社) ▽加茂儀一著『騎行・車行の歴史』(1980・法政大学出版局)』
773日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:48:34.08
>>763

那珂八幡古墳は左右不同だから
だいたいのところで造ったんだろうな
測らないと気付かない
774日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:49:50.04
【ヨーロッパではローマ時代,中国では漢代に始る。】
【鐙は出土品などからみて、紀元前4世紀のスキタイや前2世紀のインドや中国の漢の時代に存在していたらしい。】

箸墓の周濠の上層部に鐙があったとして何の問題があるのやら
775日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:51:45.35
定型化前の古墳の規格のズレを上げて大喜びと言うバカそのもの

大体九州に大型墳丘墓の文化なんてなかったのに突然持ち込まれた時点で九州の文化が蹂躙されてる証拠だろうに
アホとしか
776日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:57:14.35
>>717
笑える
「南→東」や「正北抵新羅の抹殺」などの史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの犯罪者の、
大和説学者らの願望書いてなんか楽しい?
理由なんか何もないでしょ
それで大和説学者の嘘つき騙しの研究成果をどうやって肯定する気?
短冊に書いて星にお供えでもする?

大和説死んでるよ
777日本@名無史さん
2020/04/03(金) 15:57:54.83
北部九州も後続の定型化後の前方後円墳は2対1になってる
778日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:02:29.60
>>774
中国の木製輪鐙の出現は4世紀から
779日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:03:46.87
>>718
>桃の下に何も無かった
建物を取り壊した木材の破片すら無い

ふーん。
それじゃ、庄内3の土坑が先に造られ、そこに桃が捨てられ、
その後に柵や大型建築が建てられた、という事なんだな。
この話もどこかで聞いた事があるような気がする。
780日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:08:51.94
>>327
>ニュース速報から突如として三角のスレが消されたな

ふーん?、そんな事もあったのか。
781日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:10:11.13
九州は独自文化をドンドン畿内に上書きされて自我を喪失していく過程がよく分かるな

全く起源を九州に辿れない古墳を持ちだして邪馬台国でございますとはw
流石は邪馬台国の会のアホどもだな
782日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:10:13.54
箸墓の後円部はちょっと大きすぎるんだよね


160m÷1.44m=111.11・・・


径百余歩じゃなくて径百十余歩になっちまう

黒塚古墳の濠を含めた全長の方が近いんだよ


(134m+20m)÷1.44m=106.94・・・


ほら、百余歩です
783日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:10:47.71
>>775
>大体九州に大型墳丘墓の文化なんてなかったのに突然持ち込まれた時点で九州の文化が蹂躙されてる証拠だろうに

それは、畿内も同じこと!  わははははは   @阿波
784日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:19:13.00
>>746
>>「大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清」と、
唐ではなく「隋」の呼称を使ってしまっている。

>それは金石文だから別だね

つまり、日本国は中国の事を、前代も後代も「唐」と呼んだ、
という話は嘘であったのであり、
「隋使を唐使だと呼んだ」というのも嘘であったんだね。
785日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:19:28.06
阿波の古墳は小さい
786日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:19:31.03
箸墓は卑弥呼の後だろう
おそらく崇神天皇辺り
280年前後の築造だろう
787日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:20:34.01
「古墳のルーツも倭国(阿波)」

「土壙墓」も「甕棺墓」も「木棺墓」も「石棺墓」も「配石墓」も「方形周溝墓」も「円形周溝墓」も「突出型墳丘墓」も「円墳」も「前方後方墳」も「前方後円墳」も

何故か、すべて在るのは倭国(阿波)だけ。   @阿波
788日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:21:10.73
要するに、隋の使者裴世清は大和の法興寺(飛鳥寺)を訪れた
邪馬臺は大和
789日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:23:35.04
「方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型か?」
蘇我氏の本拠地:徳島県石井町の曽我氏神社古墳群

先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが
蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。
このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。
また、同じ石井町には奈良の大和朝廷に先行すると思われる白鳳寺院跡および白鳳瓦窯跡が確認されている。
他にも吉野川中流域の美馬町・川島町にも白鳳寺院跡が存在する。
これらも倭国(阿波)内・外で頭角を現した有力豪族、蘇我氏に由来するものであろう。  @阿波
790日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:24:49.49
>>750
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などのガセネタを流し続け、
「庄内3の土坑よりも柵や大型建築の方が後」という、
史料実態を否定し続ける大和説
791日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:28:23.99
>>786
266年に倭の女王が朝貢して、その次の王は男王だったという記録があるから、
少なくとも266年までは台与は生きてると思うんだよね

箸墓は台与の陵墓か、その次の男王の陵墓かもな
792日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:29:24.75
阿波の庄蔵本の甕棺は下朝鮮の松菊里系土器を使用している
793日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:30:39.54
「加茂宮ノ前遺跡(縄文時代)」
阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千〜3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。
1基の円形配石遺構は、直径が1〜3m。
人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。
また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、
全ての円形配石遺構が同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。
配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。
794日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:33:12.50
>>792
>阿波の庄蔵本の甕棺は下朝鮮の松菊里系土器を使用している

まさに倭国(阿波)が、朝鮮半島と通交していた証拠。   @阿波
795日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:35:51.01
現実や史実とは全く異なる物語をつくって自己満足に浸る畿内妄想族w
学会の解散も検討したほうが良さそうだなw
796日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:36:03.46
先祖が下朝鮮人
797日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:37:04.06
台与は倭迹迹日百襲姫命の幼名なんかな??
798日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:37:19.09
庄・蔵本遺跡とは
庄・蔵本遺跡は、阿波徳島のランドマーク、眉山の北側山麓に広がる遺跡です。
蔵本キャンパスでは、1982 年に体育館器具庫地点の発掘調査を嚆矢とし、これまで30次にわたる発掘調査が実施されています。
その結果、縄文時代晩期から近代までの幅広い時代にわたる、数多くの貴重な文化財が発見されています。
その中でも、弥生時代前期のそれは極めて豊富で、初期の農耕集落遺跡として、学界で注目されています。
弥生時代の始まりには、2重の大溝が居住地の周りを巡り、その周辺に墓地や畑・水田が広がっていたようです。
そのほか、弥生時代中期の方形周溝墓群、後期の中国鏡、銅鐸片を発見するなどの学術的価値の高い成果をあげています。
旧河道や溝などからは、土器・石器などの道具に加え、木製品・炭化種実といった有機質資料も豊富かつ良好な状態で出土しており、
弥生人の生活誌の復元にも大きく貢献しています。   @阿波
http://tokudaimaibun.jp/s_rist.html
799日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:41:39.78
>>796
正解

産経新聞(2018.11.28) 最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
800日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:45:04.07
庄蔵本遺跡周辺の水田跡は見つかっていない
801日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:46:33.72
>>800

だからなに?  わははははは   @阿波
802日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:49:09.27
阿波国西部三好町の弥生時代の積石墓群  これは、萩原2号墳と時期を同じくする最古級の墳墓群である。   @阿波

「足代東原遺跡」 
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023037
803日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:51:35.53
>>801

縄文時代と同じ
804日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:53:50.98
>>802

積石墓は倭人の墓ではない
倭人は「封土作冢」
805日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:54:24.91
>>768
>妄想の上に成り立つ妄想を成立させるための後出し基準乙

九州説は考古学の常識を知らないからメチャクチャ言ってる、という告白乙
806日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:54:32.98
その通り。   「庄蔵本遺跡」は、縄文時代晩期から近代までの幅広い時代にわたる遺跡だからね。  わははははは   @阿波
807日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:54:33.26
そもそも最初に造られた前方後円墳は、「今後は前方後円墳で統一しよう」と決めた後で最初に亡くなった人の墓だろ
808日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:57:36.72
>>769
畿内説の誰も言ってない主張を妄想で創作して、さらにまた妄想で否定する
九州説が滑稽すぎませんか?
809日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:57:54.63
>>806

前期末から中期初頭にかけて、庄遺跡周辺の遺構群は厚い洪水砂によって埋没してしまう。
この埋没過程においても豊富な遺構、遺物が検出されているが、やがて、
用水路網が荒廃し、集落が解体してしまう。
これ以降、15世紀ごろまで、新たな地層の堆積は認められない。
地形の安定化が、水田経営の難航を招いたものと推察される。
弥生時代中期前葉〜中葉の集落は、あたかも縄文期に帰ったかのようで、点在するにすぎない。
810日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:58:04.61
>>804
>積石墓は倭人の墓ではない
>倭人は「封土作冢」

なにトンチンカン言ってんの?  わははははは   @阿波
811日本@名無史さん
2020/04/03(金) 16:59:06.37
>>774
全くないね。
上層部だし。
812日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:01:43.47
>>809
「弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流」
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水により、灌漑水田稲作は壊滅である。 
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、
縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせる。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。   @阿波
813日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:01:54.15
>>756
>常にウソつく九州説

「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などのような史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しが、
頭と体に染みついて病気になって、
常にウソをつき続ける大和説者
814日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:02:20.97
>>778
>中国の木製輪鐙の出現は4世紀から

発見された現物がね
もっと前からあった
815日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:02:27.37
>>808
奥山に言えよ
816日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:04:09.89
>>779
>それじゃ、庄内3の土坑が先に造られ、そこに桃が捨てられ、
>その後に柵や大型建築が建てられた、という事なんだな。
>この話もどこかで聞いた事があるような気がする。

調査報告と逆の妄想をする人は限られる
817日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:05:44.57
>>814
中国の現物は発見されてないが?
当初5世紀以降と考えられていたが文献から推測して最古で4世紀頃に開発された
と考えられている
818日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:06:19.82
>>812

また言ってる
洪水で縄文に回帰するのは水田適地が極度に少ない阿波だけ
819日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:06:49.85
>>784
>つまり、日本国は中国の事を、前代も後代も「唐」と呼んだ、
>という話は嘘であったのであり、

日本国が中国の事を、前代も後代も「唐」と呼んだ、
という話をした人がいないからな
ウソをつくのは九州説だけだ
820日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:06:55.10
>>761
>つまり銅鐸が出土したからといって、その下の層が銅鐸時代より古い層とは言えないという事だな
纏向遺跡第168次調香現地説明会資料
「今回の調査からは遺構に伴うものではありませんが、
特筆すべき遺物として古墳時代後期の包含層から銅鐸の鰭の破片が出土しています。」

ふーん。
821日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:09:17.99
>>818
>洪水で縄文に回帰するのは水田適地が極度に少ない阿波だけ


根拠無し、また言ってる。  わははははは   @阿波
822日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:10:44.91
中国で戦車が廃れたのは前漢の時代
一般的に乗馬が可能になったことを示している
遊牧騎馬民族でない農耕民の漢族の多くが馬に乗っている様子から鐙の出現が想定されている
823日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:11:39.64
>>820
やはり土器など長期保管もできれば移動もできる小物で編年するのは危険だな
824日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:13:13.32
>>817
>中国の現物は発見されてないが?
>当初5世紀以降と考えられていたが文献から推測して最古で4世紀頃に開発された
>と考えられている

また九州説のウソ
現物は4世紀前半から
825日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:15:31.79
>>823
>やはり土器など長期保管もできれば移動もできる小物で

これが凄まじい非常識
土器はすぐ壊れるから編年に使われている
826日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:16:47.75
>>824
4世紀前半は中国で鐙が発明された直後であり、
この時期の騎馬俑には小さな鉄製と思われる鐙が確認できるが、
これらには乗馬の際の足掛けとしての機能しかなかった。

現存する最古のものは箸墓出土品
827日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:18:27.33
妄想基盤に触れると発狂したかのように反論してくるのが畿内教信者の特徴w
828日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:20:09.58
>>827
ほんとに発狂してる九州説
829日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:21:12.64
むかし卑弥呼は犬を飼っていたとか言う奴もいたなw

纒向遺跡
犬の全身骨格 当時の役割、探るヒントに
https://mainichi.jp/articles/20180623/ddf/012/040/003000c
犬の骨は2014〜15年の発掘調査で、遺跡中枢部の大型建物跡から
約40メートル離れた溝(幅約3・2メートル、深さ約1メートル)の底から出土。

一緒に出土した土器から3世紀前半の骨とみられ、性別や詳しい大きさは不明だが、
しば犬よりやや大きく、1歳半以上とみられる。
骨には解体された跡がなく、溝の底に犬のために掘られた穴もないため、
埋葬されたのではなく溝に遺棄されたとみられるという。
830日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:22:55.74
>>826
これ 湖南省西晋墓陶俑図 邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
西暦302年現在で存在
831日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:22:57.34
おやおや畿内説の宣伝スレというより、墓穴拡張するスレですね
わかります
832日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:24:24.50
>>830
絵?
833日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:27:00.37
>>826
>現存する最古のものは箸墓出土品

布留1ってだけだから、西晉墓の現物とどっちが古いかは不明
834日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:28:44.44
>>832
馬鹿が騒げばそのうち1が写真を上げるだろ
835日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:29:29.34
>>831
中傷すればするほど九州説の負けが宣伝される
836日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:37:21.05
>>827
どれが「発狂したよう」なの?
指摘は具体的にどうぞ
837日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:46:21.26
箸墓出土の輪鐙
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
838日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:48:00.04
蔀屋北遺跡(5〜6世紀)出土の輪鐙
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
839日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:52:12.01
だいぶ違うだろ?
840日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:54:50.57
頭がバイアスで充満した畿内説登場www

毎日毎日お前ら無職か?www
841日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:54:53.20
>770
>と言うか九州説のアホが毎回喚いてる
「大和朝廷が卑弥呼の後継者を自称した」とか言うバカ妄想だけど ・・・

そんなアホな事なんて、言わないよ。
「大和朝廷」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
卑弥呼は「姫氏」であり、
大和は阿毎氏であり、九州倭國から別れた別種の旧小国の附庸國であったし、
九州倭國の「東征毛人五十五國」にも協力して大きくなり、
扶桑国とも呼ばれた国であり、
九州倭國で姫氏にとって代わっていた(阿毎氏の)磐井を倒して、
ようやく九州倭國の王家に加わる事だ出来たんだよ。
842日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:55:40.32
>>840
それを証明できないまま連呼するのが
バイアスの典型なんだよ
843日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:55:46.60
>>839
え?
844日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:57:57.47
俺は勝山のは製作途中の物だと思うぞ
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
845日本@名無史さん
2020/04/03(金) 17:58:32.04
>>843
曇ってない目でよく見てごらん
846日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:00:14.83
当時の倭国には馬は居なかった
「其地無牛馬虎豹羊鵲」
847日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:01:07.87
バイアス九州説
848日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:01:31.45
>>845
学会が同種だと判定したのに文句つけんのか?
849日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:01:45.57
>>846
西暦何年当時
850日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:02:26.88
>>848
>学会が同種だと判定したのに文句つけんのか?

判定したという証拠は?
851日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:03:03.18
>>846
箸墓製作には馬を使ってたんじゃないの?
人力だけじゃ無理でしょ?
852日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:03:33.02
>>849
魏志倭人伝
853日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:04:04.96
>>852
それ、何年?
854日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:04:23.81
話にならん素人畿内説現るw
キナイコシ未満www
855日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:05:25.55
>>854
また逃げた九州説

今日もみじめな敗退
856日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:06:44.07
>>777
>那珂八幡古墳は左右不同だから
だいたいのところで造ったんだろうな
測らないと気付かない

ふーん。
857日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:07:41.52
九州説はみじめ
常に中身が無い
858日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:10:24.82
>>857
中身が有るのは、「阿波」だけ  だと、何度言えばw   @阿波
859日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:17:49.23
昨今のキナイコシの劣化は加速してきたなあ
痴呆症の進行は止められんぞw
860日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:18:02.51
>>858
泡の中身はだだのガス
861日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:19:19.62
>>844
勝山出土のは製作途中で折れたのかな?
862日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:19:39.61
>>859
悪口しか言えない九州説の劣化と痴呆化は極限だな
863日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:24:49.06
>>860
>泡の中身はだだのガス


常に中身が無い

中身が有るのは、「阿波」だけ  だと、何度言えばw   @阿波
864日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:28:50.43
ウソつきは九州説の始まり
865日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:30:31.27
>>864
というウソしか返せない畿内説あわれ
866日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:30:37.53
>>864
そして、終わり
867日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:31:30.80
>>865
ウソだって証拠は?

九州説さん、またウソ漬け?
868日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:32:31.47
>>866
と妄想を繰り広げて現実逃避するしかない畿内説あわれ
869日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:36:23.55
>>844
やはり畿内は馬具だらけなんだなwww
870日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:39:48.73
これこれ

>現場確認の結果
>・桃の種が埋められた場所は建物とは関係のない場所である
>・桃は遠い昔に埋められたもの
>・建物は後世(4世紀)で建てられた何らかの施設

なんてウソついちゃった九州説
終わってるよ
871日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:40:19.27
>>868
妄想だって証拠は?
872日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:46:37.85
>>775
>定型化前の古墳の規格のズレを上げて大喜びと言うバカそのもの

那珂八幡などに比べて、大和の石塚や箸墓が、
「巨大化」だけではなく形態的に「進化型」である、という事が明らかであるから、
石塚や箸墓は、那珂八幡などに比べて、時期的に「後」になって造られたものである、
という事は明らかであり、
大体、大和に大型墳丘墓の文化なんてなかったのに、
時系列的にも、突然持ち込まれた時点で、大和の文化が蹂躙されてる証拠だろうに
アホとしか
873日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:51:20.76
>>777
>北部九州も後続の定型化後の前方後円墳は2対1になってる

北部九州でも「進化」が起こった事を示し、
おそらく、その定型化も、筑紫が(大和よりも)先行していた。
874日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:51:40.50
>>870
ウソという証拠は?
具体的に
875日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:52:45.73
>>872
>那珂八幡などに比べて、大和の石塚や箸墓が、
>「巨大化」だけではなく形態的に「進化型」である、という事が明らかであるから、

「進化型」とか
理由も言わずに言い張っても
石塚がより原始的なのは誰でも見ればわかるので
そんな詐欺には誰も騙されない
876日本@名無史さん
2020/04/03(金) 18:55:04.76
>>874
>ウソという証拠は?
>具体的に

現場確認の結果とか言い張っても
誰が確認したのが言えないから
それがウソだって証拠

九州説はウソつきだよ
とても悪質
877日本@名無史さん
2020/04/03(金) 19:23:17.30
>>874
横ですまんが、桃の種と建物が関係ないという理由を
おバカな自分にもわかるよう解説してくれまいか
878日本@名無史さん
2020/04/03(金) 19:24:19.83
>>869
魏志倭人伝によると倭には馬がいないからなあ
馬具だらけということは馬が入ってきただいぶ後世の遺物なのだなあ
879日本@名無史さん
2020/04/03(金) 19:28:30.09
>>877
ニュー速でも指摘されてたこれだろ

638 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2020/04/02(木) 22:52:18.21
■考古学的研究成果の例
・纏向の大型建物で卑弥呼主催の祭祀が行われていたニダ!
・大量の桃が献上されていたニダ!
そう見るのが考古学的に妥当であるニダ!

■現実
纏向遺跡の桃の種の発見場所からすると、建物と桃の種は時代が一致せず無関係

桃の種が埋まっていたのは柵の下
邪馬台国畿内説 Part581 ->画像>32枚
880日本@名無史さん
2020/04/03(金) 19:30:52.21
それにしても、おかしな話ばかり。
戦前?当時の話、家の近所には朝鮮人、韓国人(不明)ばかり住んでいたと言っていたり。

老婆談。
881日本@名無史さん
2020/04/03(金) 19:34:59.79
確実に老婆談と同じ、
セメント通りのほうで豚を飼っていて、誰の家だったかな・・・と言っているし。
882日本@名無史さん
2020/04/03(金) 19:38:16.23
ほんとーに、家は何の家だったんだろう、
(実際に?)住んでいたところは〜(伊達郡?)〜みたいな事を言っていたり。
883日本@名無史さん
2020/04/03(金) 19:52:38.39
>>876
あんた

バカだな

何度も聞き返すなよ


畿内説で言い返せよ

論ずることしないの・・・・
884日本@名無史さん
2020/04/03(金) 19:56:50.00
まさか、ほんとーに『天財若子』?関係の?
885日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:01:38.81
奥山は過去のテンプレ貼り付け以外は
長文は苦手なようだな

ボケてきたんだろうな
886日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:04:22.36
祭祀を読めないキウス
887日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:07:04.55
たしか相撲が好きだった?とか、
そういう話もしているし、あっちこっちに行き相撲を取ったり。

日本昔話?


ふれあい館関係を調べてみた?
某氏談と、ほとんど合致している。
888日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:12:48.32
>>879
「建物と桃の種は時代が一致せず無関係 」って
理由が一言も書いてないな
ばかだろ
889日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:13:18.38
BS-TBS
諸説あり!邪馬台国スペシャル
▽古代ミステリー 幻の国は“ここにあった!”
2020年4月3日(金) 21時00分〜22時54分

あと1時間で畿内厨が地団駄踏む番組が始まる
890日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:15:38.17
家(いま住んでいる?)の裏のほうに店があったと言っているし。
酒を飲んだり、そういう、お店。

ほとんど合致。
891日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:20:13.28
どうせ古代のことだからと、編年時系列をごちゃ混ぜにして茶化す・・、まいどお笑い畿内説www
892日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:21:40.43
>>889
九州説はテレビの娯楽番組が最後の砦か
惨めなもんだ
893日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:30:50.50
エー、まいどお笑い畿内説www
894日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:33:30.20
>>888
畿内説が両者は同時に存在したかのうような表現をしたからだろう
俺はTVでの紹介で別の点に疑問を持ったけどなw
895日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:34:35.23
>>889
奥山はBSは見れないとか言ってたなw
アンテナ出すと集金に来るからw
896日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:34:41.05
畿内説は、ガチコチ学者風で融通が利かん。

時にはTBSでも見て、世間の冷たさに触れるのも良かろう。
897日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:34:46.05
それにしても、なんで知っているんだろう。

日本初の空襲(空爆されたところ?)、
小田のほうでしょ?
898日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:36:06.89
>>879
なーる
建物群と明らかにそれを取り囲む柵列の「柵の下」にあったのなら
桃の種は祭祀遺構などではないのですな
こりゃよくわかる
サンクス!
899日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:37:46.91
それとも、日本の軍関係の話?
そこから(空襲、攻撃に)行ったという話なのかな?
900日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:40:18.36
畿内説追い詰められて泣きそうじゃん
901日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:41:22.29
俺は桃の種を籠に入れてお供えしていたという説明してるのを見た
ちっさい籠と大量の桃の種w
とうてい果肉付きの桃が入るとは思えん籠w
902日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:42:30.94
どんぐりの詰まった籠を思い出したよ
縄文遺跡の
903日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:43:19.10
>>900
いつ、誰に?
904日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:44:03.06
桃の種も見つからない九州説哀れ
905日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:44:40.40
>>894
>畿内説が両者は同時に存在したかのうような表現をしたからだろう

いつ、誰が?
906日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:50:02.72
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
907日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:54:06.00
九州の猿はついに古墳が邪馬台国の証拠だとか言い出したよ

邪馬台国の会はバカの量産工場だな
908日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:55:53.80
那珂八幡古墳が邪馬台国の証拠だとか
本当に脳みその足りない猿はその場その場で適当なこと喚いてるだけだな
909日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:59:13.75
何の話なんだろう、王母〜の話?

機織りをしていた家があり、結婚・・・。
幸せも長くは続かなった・・・・・・・戦争になり?

なぜか老婆談と同じ。
910日本@名無史さん
2020/04/03(金) 20:59:31.12
新進気鋭の九州説に畿内説の頭が追い付いていない
911日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:02:31.30
九州の猿は都合が悪くなると突然

庄内式は九州発祥とか、古墳は九州発祥とか、しまいには三角縁まで自分たちの発祥とか言い出すからな
どっかのアホ半島と同じメンタルだな

バカは行動がそっくりだな
912日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:06:38.65
それでも地球は回ってる
913日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:07:42.36
九州説は止まっている
914日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:10:39.33
『牛郎織女』

なぜか、王母〜何やらの話と同じ。
それともマクロス?
915日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:17:18.21
そりゃ結論に至ったのだから、それ以上議論のしようもないだろうw
916日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:17:34.42
必死に古墳を否定して都合が悪くなると古墳はぼくちんたち九州のもの!
必死に庄内式を否定して都合が悪くなると庄内式はぼくちんたち九州のもの!

みなさんこれが九州説の猿踊りです
917日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:18:23.44
小椋佳の曲も同じ?
ほんとーは、そのような気がするw

『きみは それ以上』
918日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:19:01.13
おいおい

「柵の中に桃の種」がチラっとだが図解で放送されたぞw
919日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:19:34.26
九州説はヤキが回っている
920日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:21:31.56
>>918
されたら何だ?
九州珍説が息を吹き返すか?

それは無い
921日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:23:55.31
>>920
柵の下に桃を埋める祭祀を説明してみ?
922日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:28:57.95
>>921
宮殿と柵を取り壊す
サヨナラのお祭りをする
お墓へ向かう
終わり
923日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:31:48.01
>>922
お前は婆さんが亡くなった時に、
婆さんが暮らしていた建物ではなく、家のふちの生け垣で祭祀するのか?
924日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:35:47.84
>>923
どこだっていいだろ
925日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:40:08.35
>>923
お前は人前に姿を現さず、ただ一人の男子のみが出入りする親魏倭女王が亡くなった時に、
女王が暮らしていた核心の建物ではなく、建物群のふちの柵で祭祀するのか?
926日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:40:39.32
>>923
婆さんが暮らしていた建物跡の更地で祭祀したからこそ、お祭りが終わった後に端っこに穴掘ってお納めしたんだろ
927日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:41:28.76
>>925
何かいかんか?
928日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:43:22.32
マクロス。

藤原某という歌手について調べてみた?
小田、渡田のほうの話が出てくるし、そっちの学校に行っていたとか。
929日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:46:02.01
>>925
女王が暮らしていた核心の建物の跡地には祭祀に集まった人とか祭壇とかがあったから。埋める穴ほるのはその脇がベスト
930日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:48:40.12
女王が暮らしていた核心の建物の跡地には祭祀に集まった人とか祭壇とかがあったなら、
そこに埋めるだろう
931日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:50:47.79
>>930
なんで?
932日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:51:43.66
>>921
ごっつマニアックな祭祀やなw
933日本@名無史さん
2020/04/03(金) 21:59:00.14
>>931
で、女王が亡くなって、葬儀するまでに、わざわざ柵を取り払ったのかい?
934日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:00:18.30
>>933
いけないか?
935日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:03:55.00
大勢の人が儀式に集まるんなら、まっさら更地にするのがいいだろ
936日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:05:26.19
女王が亡くなって、葬儀するのに更地?
偲ぶ心とか無しかいな
937日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:07:44.11
ふつー葬儀が終わってから、更地だなあ
938日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:08:08.05
現代の個人的感覚で古代史を語れるわけがないことに気がつかないアホがいるな
939日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:08:37.07
>>936
巨大古墳にお移りになるんだから、前の処居は完全撤去がいいんでないの
940日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:10:58.08
『ふれあい館』というところのサイトがあるでしょ。

【在日コリアン生活文化資料館】⇒【資料分類】・・・戦中。

日本初の空襲地点()〜表記された地図のようなものとか。
なぜ知っているんだろう。
941日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:11:57.04
>現場確認の結果
>・桃の種が埋められた場所は建物とは関係のない場所である
>・桃は遠い昔に埋められたもの
>・建物は後世(4世紀)で建てられた何らかの施設

九州説の真っ赤なウソと確定したわけだが
942日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:12:08.18
穢れ観からすれば、人が死んだ建物はアウトだろうよ
943日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:12:53.37
>>937
それが「ふつー」って根拠は?
944日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:15:30.05
>>943
ふつーは婆さんが亡くなったら、婆さんの住居で葬儀を営んでから、
住居を解体するから
945日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:16:30.30
きれいサッパリ更地にしてみんな集まって斎きお祭りして
儀式に使った道具類は脇に穴ほってお焚き上げする
御供物も一緒に埋める
こんな感じの儀式だろう
946日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:17:10.95
>>944
それ、誰が決めたの?

w
w
w
947日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:19:14.95
>>944
古代ではモガリノミヤを別に建てて、そこに安置する
948日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:19:27.87
平成度大嘗祭の供物は大嘗宮の一角に埋められたらしい
949日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:22:23.03
>>948

践祚大嘗祭といえば、麁布。  麁布といえば、倭国(阿波)!   @阿波
950日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:22:25.08
あれ?
桃の種ってのは畿内説によると卑弥呼の葬儀だったのか?

だったら魏志倭人伝に桃とか蛙とか一切出てこないから、
邪馬台国畿内説は完全否定されちゃうよ?
いいの?
それでいいの?畿内説?

神仙思想とかで卑弥呼存命中の祭祀ってことだから
桃でもいいかなあと思っていたのだけど
951日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:22:52.18
>>948

践祚大嘗祭といえば、麁布。  麁布といえば、倭国(阿波)!   @阿波
952日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:24:58.02
>>950
出てこないと否定されるという理由が
全くわからない
あなた個人の感覚は他人に伝わらない
953日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:27:14.01
>>950
何をお供えしたかとか細かいこと書いてないだけだろ
でないと、何かお供えがあったら卑弥呼の墓ではないとか気の狂った理屈になる
954日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:29:42.24
>>950
桃はイザナギが黄泉醜女に投げてたろ
たぶん葬儀に使うぞ
955日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:32:44.97
いやだから

ちょー詳しい植生が書かれてるんだから、
桃が大量に祭祀に使われていたなら書かれてるはずなのに
桃は書かれてない

葬儀なんて一般人のモガリまで書かれてるのに
蛙を食べるとか書かれてない

>>952-954
なんだか必死でこわいー
956日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:36:27.44
>>955
>桃が大量に祭祀に使われていたなら書かれてるはずなのに

何で「はず」なの?
957日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:36:36.91
>>955
>ちょー詳しい植生が書かれてるんだから

その通り。   「橘」の自生しない北部九州もアウトだね。  わははははは   @阿波
958日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:39:30.88
>>956
魏志倭人伝を読んで、なんでそんな阿呆なことが言えるの?
959日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:43:46.76
>>958
阿呆という理由は?
960日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:45:27.60
>>955
961日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:56:51.76
ただ罵るのは論破された人
962日本@名無史さん
2020/04/03(金) 22:59:05.59
>>781
大和は、東征毛人五十五国に征服されて、
筑紫の前方後円墳文化をドンドン上書きして、
半島の前方後円墳の、なだらかであったくぼみ部をシャープ化し、
天円部と地方部の比率を2:1に簡略化し、
天円部の円形や地方部の四角形も明瞭化して、
進化させていく過程がよく分かるな
963日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:01:38.87
>>782
>箸墓の後円部はちょっと大きすぎるんだよね
160m÷1.44m=111.11・・・
径百余歩じゃなくて径百十余歩になっちまう
黒塚古墳の濠を含めた全長の方が近いんだよ
(134m+20m)÷1.44m=106.94・・・
ほら、百余歩です

どちらも「南≠東」に拠って、卑弥呼の墓には×です。
964日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:09:35.02
また九州の猿が九州に全く起源の探れない古墳をぼくちん起源だと言い張って邪馬台国の証拠とか泣きわめいてる

毎度おなじみの九州猿の猿踊りです
965日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:09:50.74
なーんだ畿内説は、怖くて怖くてBS-TBS見てなかったのか。
ま、見てたら即死だったろう。
なんせ、本場中国の学者先生たちは、揃いも揃って九州説だったからな。
966日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:10:52.75
都合が悪くなると全く現実を無視したウリナラ起源説

本当に九州猿の見苦しさは見てて可哀そうになるな
967日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:12:49.22
次は何が九州のお猿さんは僕のものだとか言い出すのか楽しみだな
968日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:13:06.21
同胞を猿と呼べる畿内説者とはヤマト民族なのだろうか?
969日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:13:57.82
>>968
同胞と見られていない
970日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:14:50.90
>>965
即死する理由がない
971日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:18:31.71
キナイコシが悔しそうw
972日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:21:04.99
>>786
>箸墓は卑弥呼の後だろう
おそらく崇神天皇辺り
280年前後の築造だろう

前方後円墳は、やはり、
壹與の遣使が西晋武帝から266年頃に天円地方思想を学んだ事がきっかけであり、
壹與は、卑弥呼の宗女で13歳で臨時的に立てられた女王であったから、
まだ天円地方墓は考えられなかったが、
壹與の次の王になれば、モンゴルや半島の前方後円墳の模倣を始めるようになり、
それの始まりが那珂八幡など。
そして、壹與は250年頃に13歳で女王になったのだから、
仮に長寿で45歳位で亡くなったとすれば、282年頃に亡くなった事になり、
だから、那珂八幡の王の墓は大体、3世紀後半の半ば過ぎになり、
それの進化型である石塚が3世紀末頃になってしまう。
973日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:22:52.77
という、夢だったのさ、、、
974日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:23:36.78
BS-TBS、なかなか説得力があったなあ
会稽東治は長江河口付近だったと、こともなげに断言してたし、
その他あれこれと、畿内説の幼稚さ、未熟さが良くわかる番組だったわ。
975日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:25:19.82
だから言っているだろう。
家は実際は、そういう労働者ではないんだと。

『立て松』
植え松?松の木が立てられている写真、あれは家の写真。

いなり?何やらとか、そういう話などもしていた事があったり。
976日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:27:01.05
      ,一-、
     / ̄ l |   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ■■-っ < んなーこたーない
    ´∀`/    \__________
   __/|Y/\.
 Ё|__ | /  |
     | У..  |
977日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:27:11.40
キ、キナイコシさん!

なんで暴れてるんすか・

なんで暴れてるんですか、

お、落ち着いてください!

ほら、これが桃の種

桃の種ですよ

柵の下から?え?

キ、キナイコシさん!

なんで暴れてるんすか・

なんで暴れてるんですか、

お、落ち着いてください!
978日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:27:51.26
老婆が言うには、
そういうもの(先祖?)を祀ったりしていたとか。

天財若子?
979日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:31:37.76
ホラを喚き続けてれば真実になると思い込んでる九州の猿は今日も全く九州に起源の探れない古墳を九州発祥でそれが邪馬台国の証拠だと叫び続けるのでした

本当に半島の奴らにそっくりだなw
九州の猿は本当に笑える
980日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:33:48.38
>>977
お前が落ち着け
981日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:35:15.20
えとつまりなんだ?
九州の猿は古墳があるから九州が邪馬台国だとか言ってんの?

大爆笑だな
982日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:35:53.04
>>288
>要するに、隋の使者裴世清は大和の法興寺(飛鳥寺)を訪れた

ダメ。
「丈六光銘曰」が書かれた「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」自体が、
後代の、大和が九州倭国を併合吸収継承した後の奈良時代の文書であり、
当然、大和新政府のさか半分偽書の書紀の思想に逆らえないもの。
また、「法興寺(飛鳥寺)」自体も、
飛鳥大仏を搬入する時に大きさが合わない、という奇妙なトラブルがあり、
法興寺(飛鳥寺)は、筑紫からの移転、という論もある。

>邪馬臺は大和

「南≠東」などに拠って、×。
983日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:37:25.59
柵の下から桃の種。
BS-TBSでも、あの図面が大写しに映っていたぞ。
984日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:37:43.13
>>791
>266年に倭の女王が朝貢して、その次の王は男王だったという記録があるから、
少なくとも266年までは台与は生きてると思うんだよね
箸墓は台与の陵墓か、その次の男王の陵墓かもな

「南≠東」などに拠って、×。
985日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:39:03.67
はいみなさーん

九州説の根拠は古墳だそうですよー
猿踊りは本当に面白いですねぇ
986日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:41:28.32
>>983
だから何?
987日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:42:38.28
>>985
猿踊り。考古学ファン一同が困惑。(冷めた目線
988日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:44:25.85
>>808
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使い、
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」の嘘吐き騙しなど、
史料事実に存在しない言ってない妄想で創作して、
さらにまた妄想で否定する
大和説が滑稽すぎませんか?
989日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:46:04.19
>>974
>会稽東治は長江河口付近だったと、こともなげに断言してたし、

根拠がなければゴミ情報
990日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:47:56.90
九州から桃の種すら見つからなくてついに狂った九州説
991日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:48:30.78
むかーしの知り合い?、そういう話なのかな。
いなりなどを祀ったりしていたと言っていた。



老婆が言うには、そうなんだよな、・・・・何の家なんだろう。
992日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:49:24.22
>>819
>>つまり、日本国は中国の事を、前代も後代も「唐」と呼んだ、
という話は嘘であったのであり、

>日本国が中国の事を、前代も後代も「唐」と呼んだ、
という話をした人がいないからな
ウソをつくのは九州説だけだ

お前が問題にしていた隋代は、唐代よりも前だよ。
993日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:53:45.07
>>992
隋代に日本国が中国の事を「唐」と呼んだ、
という話をした人がいない
九州説がウソ以外のことを言う日は果たして来るのだろうか
994日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:54:10.71
今日も九州説壮絶なバカさに笑い転げさせてもらったよ
次のスレでも頑張って笑わせてくれ
995日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:55:39.24
>>826
>4世紀前半は中国で鐙が発明された直後であり、
この時期の騎馬俑には小さな鉄製と思われる鐙が確認できるが、
これらには乗馬の際の足掛けとしての機能しかなかった。
現存する最古のものは箸墓出土品

どっちにしても、倭人伝では卑弥呼の頃は「其地無牛馬虎豹羊鵲」だったんだから、
箸墓は卑弥呼の墓にならない。
996日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:56:03.97
いかなる時も絶対に
口が裂けても証拠は出さない

それが異常な九州説
997日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:56:42.43
根拠根拠で日が暮れて、

理由理由で人生が暮れる畿内説。
998日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:57:23.48
>>828
「南≠東」や「正北抵新羅」などで、ほんとに発狂してる大和説
999日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:57:50.29
次スレでもきっと九州猿は期待通りのバカ踊りを見せてくれるだろう
楽しみだ
1000日本@名無史さん
2020/04/03(金) 23:58:09.43
>>995
>どっちにしても、倭人伝では卑弥呼の頃は「其地無牛馬虎豹羊鵲」だったんだから、
>箸墓は卑弥呼の墓にならない。

ほとんど白痴の弁
鎧は濠から出た
ニューススポーツなんでも実況



lud20250914185437nca
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