邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
■動画
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttp://2chb.net/r/scienceplus/1535958697/ 九州なら地方豪族勢力、奈良なら大和朝廷に繋がる勢力
ただそれだけの話だしどっちでもいいだろ
>>1
ルビのふり方、ひどすぎるわ。日本人じゃないのかな
纒向(まきむく)遺跡
魏志(ぎし)倭人伝
箸墓(はしはか)古墳
くらいにしてほしいね 纒向遺跡は
出土物も何もかも伊都国に影響されてるんだよな
纏向をどう構築していったか謎
>>4
まあ、薩摩から「さつま市」とかの自治体名作っちゃうぐらいだから でも卑弥呼は四国、って話もあって、
四国・中国・奈良の間に淡路島があって日本神話が淡路島。
なんだかフシギ
なんだかステキ
伊都国は邪馬台国の官僚制度における「一大率」が置かれていたところだから
「常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯 」
とあり、
税関兼外務省施設みたいなところ
種があったからこっちが卑弥呼のいた場所だ…は無理があるよな。
あの時代は中国と貿易してた様だから沖縄から日本海沿岸迄幅広くいろんなものが出土してる。
それこそ出雲とか異常なくらい色んなものが出てくるしな
しかし、出雲の遺伝子って大陸から遠く、むしろ他県よりもずっと縄文系だったはず
>>9
「一大率」は魏のGHQじゃないのか?
『魏志倭人伝』は魏の立場で書かれているのでは? >>11
それが不思議なんだよな。
日本最大の銅剣が出土してる遺跡があるし西日本は銅鐸が多く出てくるんだよな。
昔は海が荒れてない日本海の海洋路が主流なので繁栄してるんだよな。紀元前200年くらいから 相も変わらず、桃種で鬼の首を取ったような近畿説がさかんだが、
鉄製品も絹製品も見当たらず、儀との交流証拠がなく、魏志倭人伝では
魏の役人は伊都国止まり、近畿への関心等全く見えないのに
何故、近畿説にこだわるのかな。
紀元前1世紀ごろの日本は
石斧で野性動物狩ったり
どんぐり見つけて食べてた原始人の世界だろ
桃が好きな金持ちがそこに住んでたって以外に
なにがわかるの
.
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。
>>16
>桃が好きな金持ちがそこに住んでたって以外に
>なにがわかるの
その前に纒向遺跡が、前方後円墳が定式化されたまさに古墳時代発祥の地であることが分かっている
古墳時代の始まりの地であり、その中心であることは前から明らかだった
桃の種うんぬんは、その纒向の遺跡が絶対年代でいつ頃のものかという
指標として年代測定に使ったってだけ
その結果、古墳時代の始まりが卑弥呼の死よりも前だったと分かったというニュースだよ >>14
前スレで青銅鏡は絹の袋に入れて古墳に納めたって書いてたけど
読まなかったのか、情弱www >>15
>どんぐり見つけて食べてた原始人の世界だろ
縄文時代から既に想像以上の文明社会だよ
例えば貝塚は、ダイダラボッチの伝説のもとになるほどの大量の貝殻が捨てられているけれど、
その土地の人間だけでは絶対に食べきれない量になってる
これ、海水で塩ゆでした後串に刺して干し貝にして流通ルートに乗せてたと考えられている
内陸の人にとっては、塩とだしが一緒に届けられる貴重な交易品な訳だ
日本人が干し貝柱のような乾き物が好きなのは、縄文以来の伝統w そういえば昔透視のマクモニーグルが卑弥呼の居場所を透視した
確か山口県のどこか辺りから奈良に移動して女王になったとか
奈良と山口を行き来していたとか
見たように語ってたなw
当時はトンデモで笑えたが、箸墓古墳の吉備との親交とか考えると一考の余地はあるかもな
普通の日本人の感覚なら卑弥呼の文化は吉野ヶ里の竪穴住居をイメージするけど、
畿内説の学者は中国化された纒向遺跡の前方後円墳をイメージするらしい
>>23
面白くて興味深いね
流通を探るのはとても意味があることだと思う
物産を背負って運んだり船で運んだりして米や金属製品と交換し持ち帰る
交易の仲介や関税を徴収するのがその土地の権力者だ
船を使えば土器に入れたなま物や塩や液状の品も運搬可能
こうやって土器は公益する国に拡散したのだろう >>25
吉野ヶ里よりも筑後肥後地方の方が九州説なら有り得ると思うけどね >>7
淡路島では鉄器工房の遺跡が発掘されてる
>>10
>種があったからこっちが卑弥呼のいた場所だ
そういう種子、もとい趣旨では無いだろう
以前から卑弥呼の墓ではないかと云われてるモノの
年代を桃の種子を使って調べたら
西暦135〜230年のものであることが分かった
ということに過ぎない。 >>21
>…古墳時代の始まりが卑弥呼の死よりも前だったと分かったというニュースだよ
>>1
> 2千個以上の桃の種が土器とともに出土
土器は移動できるし
> おおむね西暦135〜230年に収まる
幅が100年もある測定法
危なっかしい「調査」「研究」
怪しいもんだぜ
邪馬台国との関係付も恣意的で強引(>>21
>…古墳時代の始まりが卑弥呼の死よりも前だったと分かったというニュースだよ
>>1
> 2千個以上の桃の種が土器とともに出土
土器は移動できるし
> おおむね西暦135〜230年に収まる
幅が100年もある測定法
危なっかしい「調査」「研究」
怪しいもんだぜ
邪馬台国との関係付も牽強付会
眉唾噴飯物の可能性大と見た
(考古学者の見解はもう懲り懲り) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 福岡県朝倉市はどうする?? 真実なら卑弥呼の里を報じながら、卑弥呼祭りを行っている。
大嘘を市民に教授していたという事にならないだろうか?
文部省は調査指導すべきだろう、!!
とも言えるかも
魏の邪馬台国の記述で伊都国を北にあると書いているっぽいけど、九州説ではないのかね?
>>30 失敗したゴメンやり直し
>>21
>…古墳時代の始まりが卑弥呼の死よりも前だったと分かったというニュースだよ
>>1
> 2千個以上の桃の種が土器とともに出土
土器は移動できるし
> おおむね西暦135〜230年に収まる
幅が100年もある測定法
危なっかしい「調査」「研究」
怪しいもんだぜ
邪馬台国との関係付も牽強付会
眉唾噴飯物の可能性大と見た
(考古学者の見解はもう懲り懲り) この歌のサビはイケる
ガッツだぜ、愛は勝つ、それが大事
そして2018年は
『人生はリベンジマッチ』
↑
名曲、ユーチューヴ検索
★カバー、コピー大歓迎。 女性が歌ってもイイネ
ヒップホップ、クラブ等で DJミックスもOK−
大受けすること、間違いナシ。
>>33
考古学者でない、第三者機関が自然科学の方法で調査したというニュースだから
科学ニュース板に載ってるんだよ >>35
> 考古学者でない、第三者機関が自然科学の方法で調査した
といっても纒向学研究センターがプロデュースして依頼したんだろ
>>33で指摘したように
土器(桃の種込で)は移動できるし幅が100年もある測定法
しかも邪馬台国との関連付も強引で恣意的過ぎる
という点では問題のある調査研究であることに変わりはない 魏志倭人伝の方角と距離の記述。
方角は、「東」を「南」と一言、書き間違えたら終わり。
一方、距離の方は、「水行で何日」やら「陸行で何日」で遠いことの実感がにじみ出ており、
間違って書いたとは考えにくい記述。
また、行程の途中の地名、「投馬国」も「丹波国」。
あるいは、発音を「つも」と推定すれば、「出雲」、または、丹後半島先端の「津母」。
そして、今回の桃の種の年代測定による纏向遺跡が邪馬台国の年代と一致するという科学的な証拠。
これでは、邪馬台国は、畿内説の纏向遺跡、箸墓古墳あたりで、90%以上決まり。
つまり、邪馬台国は、最初から「やまとこく」と読むべきだったというオチにならざるを得ない。
九州説の人には、やっかみ的、感情的な反論ではなく、もっと科学的な反論を期待したい。
〉〉37
書き換えなければ説明できない畿内説と
そのまま読む九州説で話は終わってる
書き換えても破綻するからどんどん書き換えていって
自分でも気が付かなく全く別の国を懸命に説明してるのが畿内説
信じるか、信じないかは自由
>>31
まだどこが邪馬台国か卑弥呼の墓も見つかってないのにどこが主張しても問題ない
桃の種があれば邪馬台国と主張してる頭のおかしい人もいるんだから
別に北海道や四国が邪馬台国を主張しても場所が特定されてない以上 現時点では嘘にはならない
だいたい卑弥呼も1人じゃなく称号の可能性もあるんじゃないの? 更に畿内説を売国奴視点から言うと
朝鮮日本から見て第三者の立場の中国から東アジアを統治していると証明する漢の倭の国王印
日本はこの印の場所スタート地点じゃないと九州が古来日本の領土ではなかったことになる
畿内説=卑弥呼の時代日本は畿内だけ史観
九州説=歴史が始まる以前から九州と南朝鮮と沖縄列島は日本史観
だから畿内説は売国奴B地区の奈良とか言われる
古事記とか日本書紀とか参考にはしないのか
あれは一応日本最古の歴史書だろ
要は何でもかんでも畿内に持ってくるのはマスコミの洗脳でもあるわけよ
東アジアの覇者奴国の植民地としての纏向は許されるが奴国を占有していない纏向は許されない
倭王武の雄略天皇も5世紀にのんびり畿内が奴国を含む西66ヶ国を制圧したとあっては
それまで奴国は天皇の統治外だった事になり
百済新羅が成立した時代には奴国も対馬も天皇が領有していなかった事になる
記紀にもしっかり福岡の香椎宮で神功皇后が三韓征伐したとあるのに
日本の誉を全部畿内に閉じ込めてしまいたい朝鮮人の策謀に気がつくべき
>>992
>佐々木論文からも九州最大の国であった奴国は畿内勢とべったりだった と何度も何度も説明されてきたはずだ
ですからそれは「古墳開始期以降」の話だと言ったはずですね。
弥生時代に交流と言えるものではあっても,ベッタリとまで表現できる記述はどのページにありましたか? ここまではOKということでいいですね?
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
P254「また井上裕弘(1991)も,北部九州において古墳出現前後に畿内系の土器が流入する地域に出現期の古墳が存在することを指摘し,
弥生後期以来の伝統的でない四本柱の住居の出現と考え併せ,古墳を創出したヤマト勢力の動向を背景の一つに挙げている。」
・弥生終末期から古墳開始期への移行について,「北部九州にヤマト勢力(畿内連合)がダイレクトに流入している」ことがうかがえ,
少なくとも北部九州においては「何の変化もなく移行したのではない」と認識されているといえます。
・当時の日本に劇的な変化を及ぼす外因としては,
「238年(3世紀前期)」に魏が公孫氏を破り帯方郡で半島の経営をはじめ倭国の女王「卑弥呼」が朝貢したことが挙げられます。
・しかし「247年(3世紀半ば頃)」には,台与から帯方郡に「邪馬台国と狗奴国との交戦」を報告し支援を要請しますが
「魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史の張政が派遣されるに留まった」記述を最後に「邪馬台国から魏・晋への通交は途絶え」ました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AF%E6%96%B9%E9%83%A1
・また「北部九州」は「魏志倭人伝に倭国(領内)として記述されていることが確実な唯一の地域」といえます。
・一方「畿内の巻向」では,「3世紀中ごろかそれ以前」とみられる(東北,北海道を除く)日本各地からの土器が見つかっており,各地の首長関係者が巻向に集結していたことがうかがえます。
・地方の特色を示す土器の内訳は多い順に,東海系、北陸・山陰系、河内系、吉備系、近江系、関東系、播磨系、西部瀬戸内海系、紀伊系,南九州系で,
「北部九州系のものはほぼ見つかっていません」。(数個の欠片が大分のものに似ているという情報はあります)
・ただ「これ以外の弥生時代」については「北部九州は畿内その他と交流があった」ことが庄内土器の分布などからも見て取れます。
・なお「弥生終末から古墳時代開始の時期」は「3世紀半ば(過ぎ)」と考えられています。
・また古墳開始期からは(それまでほとんどなかった)「北部九州の絹生産や鉄器生産の技術が畿内その他へ流出が著しい」ことも分かっています。 >>43
記紀にゃ邪馬台国一切書いてない
更には神武天皇の東征まで書かれてるし
日本の歴史書だけだと畿内説は否定される
まぁ藤原家が都合悪いことを書き換えたという話もあるからな >>25
前方後円墳は日本独特で
朝鮮半島南部からも発見されてるから
朝鮮半島南部も日本人が支配していたという説が有力
ほかにも日本特産の黒曜石や材木が見つかってるのも
この説を後押ししてる。 >>47
しかしながら東征説の方が妥当だと思える。
ただし記紀よりもっと平和な流れでね。
畿内では惨殺された大量の遺骨や鉄剣は見られないだろ? 金印も倭人伝も朝鮮人にとって都合が悪い
だから金印捏造説や倭人伝は書き間違え等言い出す、その勢力が売国奴畿内説
チョンに乗っ取られたマスゴミが盛んに畿内説を報道するのに
嘘まみれ金の亡者のゴッドハンド学者と町興しの桜井市が乗った形
国宝漢委奴国王印を捏造等言えるのは日本人ではない証拠だよ
残ってる古墳を見れば、規模、造成精度、出土品を見ても畿内が
外交使節が目指した日本の中心、ヤマトだとわかるがなあ。
九州上陸から邪馬台国へ1ヶ月もかかっている訳だし。
考古学の人らって、自分で遺物を埋めて歴史捏造してた重鎮が代表だけど、
自分の妄想を正しいと信じるために、必死になってるだけだと思う。
陳寿は実際に旅をした者達の日記なんかをもとに書きまとめたと考えられる。
となると日単位での記述部分は日記の日付から計算したものをざっくり記述してしまった可能性がある。
実際には水行の途中でもっと立ち寄った場所があったとかで日数が延びてるのかもしれない。
距離を里で表現してたのに急に日付表現に変わるあたりも気になる。
大幅にカットされたんじゃないかな。
記述用の余白が足りなくなったとかw
>>30
>土器は移動できるし
祭祀土坑で、祭祀のために祭祀のときに掘った穴に土器と桃の種が同時に入れられてたんだよ
その土器形式の絶対年代を出すのに、もっとも好適な試料だろ
詭弁も苦しくなってきたなw >>30
>幅が100年もある測定法
幅が100年あっても、その最後の年代でもまだ卑弥呼の遣使237年よりも前
纏向に巨大な祭祀空間が作られていて、そこに多くの地域から人が集まっていたのが
卑弥呼の遣使よりも前だということが確認できた
つまり、卑弥呼の遣使よりも前に、倭国の中心が纏向に計画的に建設されており、
その時代の土器が祭祀用供献土器も含めて九州に流入している
九州だけが独立した倭国というのは絵空事だとはっきりしたっていうニュースだ >>30
>眉唾噴飯物の可能性大と見た
>>30が可能性大だと「見る」のは自由だよ
誰も認めてくれないだろうけどねw >>39
>そのまま読む九州説で話は終わってる
そのままなんて読んでない
短里は捏造ww >>47
>記紀にゃ邪馬台国一切書いてない
でも、倭国(ヤマト国)や日本国(ヤマト国)は書いてあるんだよ
倭と書いても日本と書いても、訓読みはヤマト
ヤマト=邪馬台国で問題ない >>52
>記述用の余白が足りなくなったとかw
字数制限なんてないよ
三国志は陳寿の私撰史書なんだから、好きなだけ書ける
実際、高句麗伝1641文字、挹婁伝340字、濊伝584文字に対して
倭人伝は2392文字ある
陳寿は、参照できたいろいろの書物や記録をつぎはぎして撰述しているので、
里数表記のところと日数表記のところは、引用元が違うってだけだと思う >>47>>49>>57
とりあえず参考にはされてるのか
でも二つの勢力がぶつかって大戦起こしたら伝説に残りそうだし
統合するにしても平和的やり方だったのかもな
なんか神話でも九州やけに優遇されてる感じがしたし >>57
当時は文字の無い時代。
漢字が入ってきた頃は音読みしかない。
文字の無かった時代に畿内でヤマトと発音する地名があったのかどうか?
これ結構重要なんだけどねえ。 銅鐸の消滅で畿内祭祀は弥生時代末期に一斉に消滅してるよ
弥生中期と後期では同じ畿内でも中身「支配層」は違うと考えてよい
>>56
短里は、ないとも言えないのでは、
ないかな。 >>57
ヤマトに読めもしない倭の字当てたのはなぜなんだろうね
それこそ邪馬台でよかったじゃねぇの? >>36
>といっても纒向学研究センターがプロデュースして依頼したんだろ
最初から結論ありきの眉唾物の研究発表だと決めつけてるようだな
そんな人には何を言っても無駄だが、当初の記事には名古屋大学中村教授からのアプローチだったと書かれていたけどね
ちなみにこれが名古屋大学が発表した調査報告書
http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/public-relations/researchinfo/upload_images/20180615_isee_1.pdf
纒向学研究センターもデタラメ、名古屋大学もデタラメと思いたければ勝手にどうぞ
>土器(桃の種込で)は移動できるし
その一般論が今回の研究結果にどう影響していると言うんだ?
>幅が100年もある測定法
研究発表を見ればわかるが2〜3世紀は較正曲線が水平になっている時期
生成されるC14が年により一定でないから補正しなければならないが、2〜3世紀は地球環境がそういう時期だったということ
今後どんなに精度が上がってもこの状況は変わらない
そのうえで、桃の種が見つかった場所である纒向の大型建物の年代は3世紀後半以降にはならないと結論付けたんだよ
>しかも邪馬台国との関連付も強引で恣意的過ぎる
研究結果がどうして畿内説を補強するものなのか理解したうえで発言なのか?
調査報告書はあくまで自然科学の分野での報告書なので、邪馬台国との関連については詳しくは書かれていない
自分が理解できないから強引で恣意的と勝手に判断し難癖つけてるようにしか見えない >>45
また自分の妄想ストーリーに都合の悪いことはすっとぼけかよ
比恵・那珂地域あたりの記述を読みな >>60、>>63
もともとヤマトという地名があったから、「倭」にヤマトという訓読みを当てたでいいんじゃないの?
もともとヤマという単語(和語)があったから、「山」にヤマという訓読みを当てたのと同じで >>62
>短里は、ないとも言えないのでは、
>ないかな。
ないよ
短里を使う理由のある人が、どこにもいない
公孫氏ももともとは漢人で、後漢の官職についてる
建忠校尉の梯儁さんも
塞曹掾史の張政さんも
魏の役人だから、これらの人が漢魏尺以外の度量衡を使う理由がない
実際に、ほぼ確実とされる比定地間の距離を測ると
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
とばらばらな数値となり、倭国上陸後は4倍も異なる値となる
短里という決まった長さがあって、それによって測定した値が書かれているとはみなせない
結局、晋の高祖、司馬懿の功績を顕彰する目的で、司馬懿の公孫氏征伐の結果、
「遠くの東夷の国」が朝貢に来たというのを大仰にするために、数字を盛ってるんだよ
倭国(女王国)までの距離は、淮南子などに見られる地の果て(東方之極)までの距離の
萬二千里とし、倭国に上陸するまでの距離を「万里の修交」にするために、1万里にしてる
盛った距離を、現実と照らし合わせると、その分過小な距離が出て、それを短里だと
言い張ってる人がいるだけ
数字は結論ありきで適当に振ってるだけだから、決まった長さの単位・短里などは出てこない >>68
そうすると淮南子に書いている
地形訓は、より現実に
あった書き方をしているとおもう。
下記の文章は、何を意味しているの?
至于西极,
二亿三万三千五百里七十 五步。
使竖亥步自北极,至于南极,
二亿三万三千五百里七十五步。 率直なことを言えば、
淮南子の天文訓の一里を
用いて、地形訓の北から南までを
計算すると、現代の北極、南極を
結んだ直接距離に近い。
海島算経も同じように、島の島峰を
測る方法。計算結果は、
里で、高さを示してある。
その里も天文訓で、でてきた里や
周髀算術などの里を用いた方が、
現実に、合うということは?
計算した結果の数値をどう判断する?
淮南子の一里約61メートル。
古代の人が、使用したテキストを、
短里あるなし、でなくて、
一里何メートルという数字が出てきたのを
どう捉えたらいいんだろうということ。
畿内説の畿も、
王畿は、方千里だし。
強いては、孫子の兵法にある
(山東省で、洛陽出身やないが、
時代は、近い
)
千里馈粮,士有饥色
千里先から、運ばれる(遠い先)、
食料や水は、結局、飢え、渇きは癒さない。
兵站は近くにあるべきの意味。
この千里も、450キロ離れた場所からと
捉えるより、
60ー70キロぐらいが、現実的やないの?
だから、白髪三千丈の国の、千単位とかの切りのいい数字を
現実の数字と対応させちゃダメだってだけw
こっちが勝つ確率は一億パーセントだ!とか言ってるやつの
実際に勝つ確率が客観的に73パーセントだった時に、
「一億÷73」とかを計算しても意味ないでしょ?
現実とは無関係な数字なんだよ
>>70
>現代の北極、南極を
>結んだ直接距離に近い。
当時の中国の人が、北極と南極を知っていたと思うのかい?
天円地方の世界観で、地は方形なんだけど?
淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,『萬二千里』。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,
以息壤堙洪水之州,東至碣石,黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。 >>65
『古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究』より
「久住(1999a)は古墳出現前後の時期を
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IV
IIB期が纒向4類5類庄内IV〜V
IIC期が布留1式
におおむね併行する
箸墓の出現を久住はIIA期と捉える。」
これを踏まえて比恵・那珂のある筑前の土器編年
【筑前】
「筑前地域の特に福岡平野と糸島平野には,三角縁神獣鏡を副葬した前期古墳が複数立地し,古墳時代初頭よりヤマト王権との交流が密であった地域と考えられる。…那珂八幡古墳(全長75m[czr−28])が出現する。…IB期,新しく見積もってもIIA期におく」
久住さんは箸墓の出現をIIA期と捉えているので判断に迷っていますが,「那珂八幡古墳の出現期は早く見積もってIB期」となります。
すなわち
IA期 ≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
P276
「外来系土器については,弥生時代後期後半からすでに瀬戸内系,東海系,山陰系土器の搬入品があった。」
瀬戸内と山陰は分かりますが,東海からというのが意外でした。
強調しておきますが『畿内の土器は搬入(出土)されていない』ことが分かります。
「『古墳出現前後』の時期には鼓形器台といった山陰系,庄内大和型・播磨型甕,布留甕といった近畿系,元屋敷系高杯・S字甕A・B類,パレス壺
といった東海系,讃岐系の甕・大型壺などの搬入土器が多くなる。
朝鮮半島からは前述の楽浪系,馬韓系土器のほか.加耶(・新羅)系の瓦質・陶質,軟質土器も搬入されている。」
「土器相はIIA期には庄内系と布留系に転換し,在来系は大甕などにわずかに残るのみとなる。」
これも強調しておきますが「弥生終末期に北部九州が畿内連合に吸収された」→「古墳時代」であり,「古墳の計画から建設にかかる年月」を考えても
北部九州が畿内連合に吸収されたのは「古墳が出現する少なくとも数年以上前」ということです。
P278【比恵・那珂遺跡群】
「遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。」
「IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。
…報告された甕7点の内,2点が庄内大和型甕 3点はそれを在地で模倣
IIA期は,庄内甕も残るものの,布留甕が出現する段階である。
…搬入品の庄内大和型甕1点,布留系甕口縁部破片1点が報告されている。その他の器種もすべて畿内系で,在地の土器を一切含まない,
IIB期は,比恵・那珂遺跡群の甕に関しては畿内系が他を圧倒する段階である。」
比恵・那珂遺跡群でも畿内連合の流入はIB期以降であり,しかも北部九州の土を使って生産したのは畿内から来た職人と考えられます。
どこかおかしい点(嘘,ねつ造)がありましたか? 陳寿が何歳だったのか知らないが、老人性認知症を引き起こしていたとしたら、
その記述はあてにはならない。
>>73
紀元前4世紀には、渾天説があり、
渾儀もあったみたいだし。
古代において、“浑”の意味は円球をいみしている。古代の人は、
天とは丸く、ちょうど卵の外殻として
捉えている。そこに星が打ち付けられている。
地球とはその卵の中の黄身だと。
私達は、その黄身の上で、天体観測しているんだと。
AD104には、「黄道铜儀」もつくられてるから、しっかり把握していると思うよ。 >>74
>久住さんは箸墓の出現をIIA期と捉えているので判断に迷っていますが,「那珂八幡古墳の出現期は早く見積もってIB期」となります。
すなわち
IA期 ≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
もちろん1年の狂いもなくビシッと決まるものではなく数年〜数十年(百年)前後するのは仕方ありません。
私は弥生・ 古墳時代の境目をIA後期と考えています。 >>74
>どこかおかしい点(嘘,ねつ造)がありましたか?
資料を偏見なく読み解けばよいだけですし
仮説が正しければ,実地に得られたデータが勝手にそれを裏付ける方に動いてくれます。
「出雲」を「投馬とも読めるぞ」等と試行錯誤するのは悪いとは言いませんが
よそ様の遺跡や墓を根拠もなく勝手に「邪馬台国の関連遺跡」や「卑弥呼の墓」にして
「それ以外に考えられない」と断定して扱うのはいかがなものかと思います。
「これはもしかするとよそ様と間違えてるかもしれない」と慎重に扱うべきだと思います。 ジンムが開いた奈良ですが 東鯷国の真ん中でさぞ心ぼそかったでしょう
故に自分達は九州倭国の分流であると主張しました
倭国からの応援の証しとして 若倭 わかちくし 大倭 おおちくし のような称号を
倭国の王から貰いよしがとしました
大倭が後に大和となり700年以降やまと と読まれるようになりました
>>73
この時則訓は、
厳密にいえば、時則ですから、
季節、月を、ベースに解説しています。
現に、東の中に書いている
「句芒」は、五佐のひとつであり、
それぞれの方角は、
季節に応じた農業の神ではないですか。
この神話のなかの里よりも、
地形訓の里は、より実情に
そったものでは、ないですかと
思うわけです。 投馬をヅマと読むというのは誰が言い出したのだろう?
トウマとしか読まないと中国人が言ってるのに。
現地の倭人の発音に近い字です
ですからイチを台とは書きません